日本語はなぜ「日本の共通語」なのか? ― 地形で解く日本史の謎
2014年07月11日 公開 2023年01月11日 更新
参勤交代は「情報発信システム」
その情報システムとは「参勤交代」であった。
参勤交代は、前田利長が家康に対して叛意がない証に、母親(芳春院)を江戸に住まわせたことから始まった。諸大名もそれを真似て、家族を江戸に住まわせた。人質とは呼ばなかったが、実質上の人質であった。
その後、家光が武家諸法度で明文化し、諸大名の江戸と自領を往復する制度が確立した。
この参勤交代は、次第に諸大名の単身赴任の習慣をつくっていった。江戸へ単身赴任をするのではない。「自分の領地へ単身赴任」するのである。
つまり妻子は江戸に住まわせ、大名だけが自領へ2年に1度行くのだ。
諸大名たちは2、3代目になると、ほとんどが江戸生まれになっていた。なにしろ、母親が江戸に住んでいるのだから。大名が帰属する土地は自分の領地である。しかし、江戸生まれで、江戸育ちの大名たちの心の帰属先、つまりアイデンティティは「江戸」にあったのだ。
諸大名のアイデンティティが江戸だった物的証拠はない。アイデンティティは心の問題であり、物的証拠を示すのは不可能だ。しかし、傍証は挙げられる。
それは、明治政府の首都が東京になったことである。
当時、大久保利通が大阪遷都を主張したが、明治政府の首都を「京都」にしようと真剣に論議された形跡はない。本来、明治政府の首都は「京都」になるべきであった。1867年、徳川慶喜は統治権限を天皇へ奉還した。大政奉還の儀式は京都の二条城で行なわれた。文字通りの天皇への大政奉還なら、政治の中枢拠点はそのまま京都になるべきだった。
しかし、諸大名たちは東京に集まってしまった。
さらに驚くべきことに、京都の天皇までが東京へ御東幸してしまった。
大名のアイデンティティは「同じ江戸」
江戸時代、徳川幕府と諸大名の間には奇妙な関係があった。諸大名は領地を拠点に、徳川幕府と潜在的に対峙していた。しかし、「アイデンティティは同じ江戸」という奇妙な関係であった。
江戸の260年間、参勤交代は江戸の情報を全国津々浦々へもたらした。全国各地の人々は、領主が持ち帰る江戸の文化を吸収し、真似た。
山と海と川で分断された土地に生きる日本人たちは、もともと情報好きだった。江戸からの最高級の情報は圧倒的な力を持ち、人々は江戸の文化に染まっていった。もちろん、話し言葉もだ。
津軽弁や薩摩弁など各地の方言は一方言に止まり、江戸から独立した言葉へ進化しなかった。なにしろ、領主様が江戸の言葉で話すのだから。
江戸の引力は、その影響から逃れられないほど強かった。
1871(明治4)年、廃藩置県で混乱なく藩は廃止された。諸大名のアイデンティティが「東京」なので混乱などあるわけがなかった。
1つの言語で話す民の強さ
明治近代化で世界史でも稀に見る権威、権力、情報の一極集中が形成された。全国から人々が東京に集まり、同じ日本語で話した。分散していた知恵と富が東京に集中し、その総力が日本を封建社会から、国民国家へと変身させた。
当時、日本は世界の帝国列強に包囲されていた。その日本は東京一極集中の国民国家へと変身することで、紙一重の差で植民地にならず、最後の帝国国家へと滑り込むこととなった。
日本語という1つの言語で話す日本人たちは強かった。およそ半世紀後の1941年、世界の列強と戦い、武力で負けると、その約20年後の1968年には米国に次ぐ世界第2位の経済大国へとのしあがった。
神は「バベルの塔」を造った1つの言語で話す人たちを恐れた。やはり、1つの言語で話す日本人は途方もないことを成し遂げてしまったのだ。
<著者紹介>
竹村公太郎(たけむら・こうたろう)
1945年生まれ。横浜市出身。1970年、東北大学工学部土木工学科修士課程修了。同年、建設省入省。以来、主にダム・河川事業を担当し、近畿地方建設局長、河川局長などを歴任。2002年、国土交通省退官。現在、リバーフロント研究所研究参与及び日本水フォーラム代表理事。社会資本整備の論客として活躍する一方、地形・気象・下部構造(インフラ)の視点から日本と世界の文明を論じ、注目を集める。
著書に、『日本文明の謎を解く』(清流出版)、『土地の文明』『幸運な文明』(以上、PHP研究所)、『本質を見抜くカ――環境・食料・エネルギー』(養老孟司氏との共著/PHP新書)などがある。