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真田幸村・大坂冬の陣に参戦、いざ出立!

高橋直樹(作家)

2014年12月19日 公開 2024年12月16日 更新

《PHP文庫『真田幸村と後藤又兵衛』〔書き下ろし小説〕より》

大坂の陣から400年――
誰も見たことのない幸村と又兵衛が、ここにいる!

 五十男にして側近から若殿と呼ばれる真田幸村。京の都で遊女屋の用心棒ぐらしをする後藤又兵衛。慶長19年(1614)、不遇をかこつ軍略家2人が、大坂城に入った。しかし決戦を前に、大坂城内は謎ばかり。又兵衛が警戒する真田家の不審な家臣・味岡、幸村の脳裏に蘇る長篠合戦の記憶、突如姿を現わした亡父・真田昌幸と瓜二つの老人、そして決戦前夜の、幸村と又兵衛2人の秘策……。戦国最後の戦いの行方はいかに?

 謎が謎を呼ぶ巧みな仕掛けでかつてない大坂の陣を展開させつつ、時代の巨大な奔流に抗った男たちの熱き魂を描いた、著者渾身の歴史長編〔文庫書き下ろし〕。

 

★では、冒頭の部分をご覧ください。

 

 慶長19年(1614)の秋。江戸の徳川が大坂の豊臣を攻める日も近いと、世情が騒がしくなりはじめた頃のことだ。大坂城の摂津国から河内国を越えて紀州へ入った高野山麓に九度山と呼ばれる在所があり、そこに一人の武将が世間から忘れ去られたように隠棲していた。

 晩秋の九度山は、あたりに夜の帳が下りると、降るような虫の音に包まれる。その九度山の夜の風景に、真田庵も溶け込んでいた。

 真田の「庵」というと、草葺きの侘び住まいを想像するかもしれないが、周囲を高い塀に囲まれた小さな砦くらいはある「庵」である。高い塀の向こうも迷路のように木戸が入り組んでおり、もっとも奥にこの家の者が御霊屋〈みたまや〉と呼ぶ堂舎が建っていた。

 亥の刻(午後10時)。手燭の火が闇に揺らめきながら、御霊屋に近づいてくる。小さな炎が手燭の主の小柄な姿を照らした。まるで山伏のようだ。

 真田幸村である。3年前、父昌幸が死んだ翌年に出家し、以来山伏のような総髪姿となった。その総髪も髭もすでに半ば白く、相貌に刻まれた深い皺は、この九度山で過ごした14年の歳月を物語っているようだ。

 幸村が手燭を吹き消して、御霊屋の観音扉に手をかける。軋ませながら開くと、闇に浮かぶ数多の燈明が待ち受けていた。さして広くもない堂舎のはずだ。小さな寺の本堂くらいであろう。にもかかわらずこの闇の深さはどうだ。数多の燈明は、その暗黒に吸い込まれるように瞬いていた。

 しばし幸村は身じろぎもせずに、その燈明の群れ囲まれていた。深い静寂に息を殺す。再び戸外の虫の音が耳に戻ると、幸村は脇差を傍らに置いて燈明の群れを拝礼した。

 燈明の群れの1つ1つに、真田一族のために殺されていった人々の霊が宿っている。その数多の霊に囲まれながら、幸村は祈りを捧げはじめる。声に出さず念仏を唱え、法華経を読み、最後に陀羅尼を唱えるのだ。この御霊屋を建てたのは、祖父の一徳斎(真田幸隆)だが、亥の刻の看経〈かんきん〉を日課としたのは、父の昌幸だった。しかしこの亥の刻の看経も、昌幸の独創ではない。昌幸が最も身近に仕えた武田信玄の信仰を、そのまま真似たのである。

 看経を作法通りに終えた幸村が、燈明の群れを仰ぐ。最後に声に出して陀羅尼を唱えるのだ。幸村の喉が動きかける。それを待っていたかのように、観音扉の向こうで不意に虫の音が止んだ。ぴたりと止んだ。幸村が耳を澄ます。確かに聞いた。弓弦の引かれる響きだ。

 じっと耳を澄ませた幸村が、閉ざされた観音扉へ眼を凝らす。また弓弦が、その扉の陰で微かに鳴る。幸村は傍らの脇差を静かに引き寄せて抜き放つ。脇差だが一尺三寸(約40センチ)ある貞宗の業物だ。閉ざされた観音扉の陰で息づく気配から、忍び寄ってきた刺客は、幸村が最後の陀羅尼を唱えるのを待っているのだとわかった。

 幸村は抜き放った脇差を肩に当てる。いつでも躍り出せる身構えだ。身構えたまま、じっと扉の気配をうかがう。まだ刺客の弓は引き絞られたままだ。いま飛び出せば、斬りつける前に刺客の矢を浴びてしまうだろう。

 幸村はひたすら待つ。扉の陰の刺客が、引き絞った弓弦を緩める微かな響きを。

 刺客の接近を幸村に知らせた晩秋の虫たちは、いまだ静まりかえっていた。

 ――頼むから秋の名残を惜しむのは、いま少し待ってくれ。

 幸村は外の虫たちに向かって祈る。いま再び虫たちが鳴きだしたなら、扉の向こうで弓弦の緩む響きも掻き消されてしまうだろう。

 晩秋の虫たちは、幸村の願いを知ったかのように黙っている。さあ、勝負しろよ、と言われた気がして、幸村は息詰まる。ひたひたと死の気配が忍び寄ってきた。

 ――早まってこちらから仕掛ければ死ぬぞ、幸村。

 何度そう言い聞かせても、扉の外へ飛び出していきそうになった。

 どれほど待てばいいのか――何度天に向かって呪詛したのかわからなかったが、天の御告げはいつも唐突だ。前触れもなく扉の陰から弓弦の緩む響きが聞こえてきた。

 躍り上がって飛び出した幸村は、体ごとぶつかるように観音扉を蹴り開ける。一瞬、敵の姿が見えなかった。まさかおれは幻を見たのか、と思った次の瞬間、目の前で刺客と鉢合わせした。顔はわからない。覆面をしていると後で知った。しかし幸村は敵の右手を狙って脇差を振り下ろすことを忘れなかった。弓を射るとき防具(籠手)を使えない右手を。

 鈍いが確かな手ごたえがあった。短い悲鳴が聞こえて、刺客の手から半弓が落ちた。そのまま踏み込んだ幸村が、刺客の眉間めがけて脇差を薙ぐ。標的を失って空を切った。

 ――どこへ行った。

 闇の中で右左を向きかけて、咄嗟に首を竦める。撫でるように刃風が首筋を掠め飛んでいった。どこだ曲者――叫びかけた幸村が、再び襲ってきた刺客の刃に、己れの脇差をぶつけるようにした。

 刃と刃が噛み合った。火花が散ってあたりの静寂が破られる。真田庵に剣戟の音が響き渡った。

 「曲者じゃ」

 御霊屋を囲む高い塀の向こうで声が聞こえた。木戸の向こうから、慣れた身ごなしの武士が躍り込んでくる。炎揺らめく投松明を、あやまたず刺客の足もとへ投じた。闇を破って刺客の姿を浮かび上がらせる。すばやく馳せ寄った助太刀の武士が、刺客の足もとに落ちていた半弓を、拾えぬよう庭の暗がりへ蹴り落とした。小脇に抱えていた槍で、逃れようとした刺客をあやまたず仕留める。

 「若殿、お怪我はありませぬか」

 刺客を仕留めた槍を引いて、そう幸村に尋ねた武士は、幸村と同じくらいの歳だった。

 「大事ない、角八」

 幸村は答えて、角八と顔を見合わせる。春原角八という。投松明に照らされたその横顔は、素朴だが猛々しく、いまも山の侍の面影を色濃く宿している。幸村がねぎらうようにその肩に手を置いたところ、熊のように獰猛な横顔がくずれ、子供のような笑顔に変わった。

 静まりかえっていた真田庵の内は、すでに緊迫した気配に満ちている。角八に続いてその息子である右衛門、さらに浪合七郎、小田切与助が馳せ参じてきた。

 右衛門が「おやじ殿、お手柄じゃ」と角八へ発し、幸村の前にひざまずくと畏まって告げた。

 「刺客の半弓をかわすとは、さすが若殿」

 幸村は笑顔でうなずき返す。

 「秋の虫たちのおかげだ」

 そう答えた幸村が、微笑を湛えたまま、右衛門と角八の間に割り込んだ。右衛門を庇うように、いまも右手に握られたままの脇差を角八へ向ける。その幸村を容赦なく押しのけて、角八は息子の前に立ちはだかった。

 

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