<強い会社に理念あり>総合メディカル/「わたしたちの誓い」は生き方を問う
2015年09月28日 公開 2022年07月11日 更新
《隔月刊誌『PHP松下幸之助塾』より》
経営の透明性に徹し、医療関連事業で飛躍
1978年、志を胸に、脱サラした7人の有志が立ち上げた会社。それが福岡市に本社を置く総合メディカルだ。当初は医療機器リースを主たる事業としていたが、調剤薬局、医業経営コンサルティング、医師の転職・開業支援、介護などにまで事業を拡大。年商1000億円の大企業へと成長を果たした。同社には時代の流れに乗って多角化を遂げながらも、貫いてきたものがある。経営理念「わたしたちの誓い」「社是・社訓」だ。人間の生き方とも言える誓いの言葉を、いかにして発展の礎としてきたのか。創業メンバーの中心的存在である小山田浩定相談役に聞いた。
〈取材・文:高野朋美/写真撮影:河本純一〉
日常に儒教の言葉があった
「社員に何かを伝えるとき、表現に困ったら古典に立ち返ります」。そう話す小山田浩定氏は、旧島津藩のお膝元である九州南部で育った。「ここでは儒教の言葉が日常的に使われていた。だから経営に関する本を読んでも、私にとって結局行き着くのは古典、とくに儒教の教えなんです」と語る。
1940年、東京の下町で生をうけた。4歳のとき東京大空襲に遭う。家族の身を案じた父が、郷里である九州への転居を決意し、母の妹の嫁ぎ先である鹿児島県に移り住んだ。終戦後、父の実家のある宮崎県都城市に転居。そこで小山田氏は、「天網恢々疎にして漏らさず」「義を見てせざるは勇なきなり」といった言葉を、家を訪れる大人たちから漏れ聞いた。
高校を卒業してすぐ、ひどい黄疸に苦しんだ。全身が真っ黄色。就職するわけにもいかず、自宅で静養した。そのうち地域の電気屋さんの仕事を手伝うようになるが、見かねた兄が、自身の勤める製薬会社を紹介。1961年、ようやく社会人の仲間入りを果たした。
小山田氏は「この会社が、私にとっては人間学校みたいなものでした」と語る。上司のほとんどは復員兵。生死のはざまを経験した彼らは強烈な個性の持ち主だった。生きることに意義を見いだしている人もいれば、人生を割り切っている人もいる。
取引先である医薬品卸会社との付き合いも、いい勉強になった。バラバラな会社、やる気のない会社もあれば、打てば響くような会社、品があって統率のとれた安心できる会社――。いろいろ個性があることを知った。「企業という組織には、トップの生きざまがそのまま出てくる。それはもう見事なまでに」。社会の現実を、小山田氏は製薬会社で学んだのである。
脱サラ失敗し、経営の厳しさ学ぶ
仕事はやりがいがあった。防疫剤やワクチンを担当していた小山田氏は、医薬品卸会社との交渉から財務内容の確認まで、さまざまな業務を任された。経営の基本はこの会社で学んだと言ってもいい。
だが、2人目の子どもが生まれたころ、「このまま一生を終えてしまうのか」という思いが胸をよぎる。1970年、脱サラする決意を固めた。
新米の事業主として初めて手がけたのは、養殖ノリを干すためのノリ簀の製造販売。原料のクマザサが日本で枯渇したのに目をつけ、台湾で製造し輸入販売するはずだった。ところが、できあがったものを見て驚く。売りものにならない粗悪品だ。「倉庫にこもって、全部検品してできるものは修理しました。二束三文で処分しましたが、いま思えば、いい経験になりました」と小山田氏は振り返る。
☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。