渡辺和子著『幸せはあなたの心が決める』より
理不尽な相手は、無視するのではなく、距離を置いてみよう。
「許す」気持ちを持つことは、他人のためにも必要なことですが、自分もまた救われます。教皇ヨハネ・パウロ3世が、
「人を許す時、許した人は自由になり、解放されます。人を許す時、その人は未来を創造的に切りひらいてゆくことができます」
と言っていますが、他人を許さない時、その人は不自由になります。
その理由を教皇は続けて、次のように言っています。
「人を許さない人は、また、他人の支配下にある人なのです」
これはおもしろい言葉です。
「許さない」と言う人が上位に立っているかと思うと、実はそうではなくて、その「こだわり」に縛られ、許していない相手の支配下にあるということ。自分が自分の主人でないということなのです。
ある人がパーティに出席していた時のことでした。
シャンペングラスを手に立っていると、突然一人の男が、わざとぶつかってきて、そのはずみにシャンペンがこぼれ、服にもかかってしまいました。
「何と失敬なやつ、いったい何の恨みで……」
そう思いながら、くだんの男の姿を追っていると、その男が、他の人たちにも同じようにわざとぶつかっているのが見えました。
そこでその人は、「ああ、あれは彼の問題だ。私のではない」と呟いて気分を転換したというのです。
つまり、自分に何かしら悪いところがあるから、ぶつかってきたというのなら、かかわってゆかねばならないが、そうではない。これは、「相手の問題なのだ」と割り切ることがたいせつで、心の平静を保ち、自分に対して理不尽なことをしたり、無礼なことを言ったり、したりする人を「許す」ことと無関係ではありません。
「それは、無視することですか?」と尋ねられたことがあります。
ある意味で、そうかも知れません。
しかし、「あんなやつ、放っておけばいい」という無視ではなくて、「私があの人のことで心を騒がせる筋合いではない」という、「距離」を置く生き方といったらいいでしょう。
そうでなくても、自分の心をいっとき乱されて口惜しいのに、それを深追いして、これ以上、自分のかけがえのない一生の時間を無駄にしたくないというプライド――「他人の支配下」に自分を置いたままにしたくないという自己解放への願いと言っていいかも知れないのです。
自分の生活をたいせつにするためには、自らの感情を自分でスッパリ「断ち切る」ことが時に必要です。
「もう、これ以上このことで悩むまい」と。
しかし、人間のこと、断ち切ったつもりでも、なかなか忘れられず、許せないこともあります。そんな時、時間が一番いい薬なのかも知れません。