『幸せはあなたの心が決める』より
求めたものが与えられなくても
挫折のすすめ
毎年4月に入学してくる学生たちの中には、この大学を第一志望としていなかった人も何人か必ずいて、私は「仕方なく入って来た」とわかる学生たちの顔を見ながら考えます。
人生は、いつもいつも第一志望ばかり叶えられるものではありません。そして必ずしも、第一志望の道を歩むことだけが、自分にとって最良と言えないことだってあるのです。
これは、私自身が今まで何回か、第二志望を余儀なくされて思うことです。
まず、小学校。どういうものか私は、幼稚園に行かせてもらえず、お手伝いさんによって育てられました。多分、当時4、5年の間に、北海道-東京-台湾-東京とめまぐるしく変わった父の転勤のためだったのかも知れません。
かくて、学習院の小学部を受験した私は、幼稚園に通っていたなら、きっと答えられたようなことが答えられず、見事に不合格となりました。
人生で味わった最初の挫折です。そして成蹊小学校に入学。
雙葉高等女学校を無事卒業して、当時女性に開かれていた唯一の高等教育の場である専門学校を受ける段となりました。
私立の学校ばかり歩いて来た私は、国立に憧れてお茶の水女子大学を受け、見事、不合格。補欠の2番ですと言われ、プライドをいたく傷つけられたまま、聖心女子専門学校(現・聖心女子大学)に入学したのです。
そして、挫折のきわめつきは、修道会入会。これは、永年想っていた恋人にふられたようなものでした。
他にもいくつかの修道会とかかわっていながら、私の心はいつも女学校時代を過ごした雙葉にあって、修道会に入るならサンモール会(雙葉を経営する修道会、現・幼きイエス会)と決めていたし、そのためにフランス語も習い、フランスに旅した時は、修道会の母院に1カ月半も滞在させてもらったほどの思い入れようでした。
修道会の方でも、家庭の事情で入会の遅れている私を気長に待っていてくださると、自分では考えていたからです。
ところが、世の中、何か起こるかわからないものです。いよいよ時節到来、修道院に入る自由が与えられた時に、それまで、私の家庭事情も理解し、かわいがってくださっていたフランス人管区長の任期が終わり、日本人のシスターが管区長におなりになりました。一面識もない方です。
そして私は、その方に、見事に入会を断られてしまったのです。かくて、洗礼を雙葉のチャペルで受けてから11年間、想いに想っていた「恋人」から捨てられたのでした。
お断りになる側にはそれなりの理由があって、その当時、29歳といえば、入会のギリギリの年齢であり、それも、慎ましやかな生活を送っていた者ならともかく、修道生活を希望する真意を疑われても仕方がないような派手な生活をしていたこともありました。
「あなたより早く修道院に入っている、ずっと年若い人の命令に従うことができますか。どんなことにも従えますか。たとえば、ほうきで掃いた後、ハタキをかけなさいと言われて、それができますか」と尋ねられ、「修道院に入ろうと望む人なら、口紅などつけていないはずです。ピンクや赤のセーターは派手すぎます」と言われて、とても悲しかったことを今も覚えています。
それは私にとって、さほどたいせつなことと思えなかったからです。
私も、好きで修道会入りを延期していたのではなく、1つには、すでに年老いて、苦労の多い一生を過ごしてきた母の傍にできるだけ長くいてやりたかったことと、1つには、生意気なようですが、終戦後、医学部に入学した兄の卒業と結婚式を無事に済ませてから、自分の心に決めた道へ行かせてもらおうという気持ちがあったためです。
それだけに、初対面で「年を取りすぎています」と言われ、難色を示された時はショックでした。
「ああ、結構です。それならそれで、別のところを探します」
生来勝気な私は、頭を下げてまで入れてもらおうと思わず、11年にわたる
「恋」に潔く終止符を打って、ある人のすすめで、まったく見も知らないノートルダム修道女会の門を叩いたのです。
失ったものではなく得たものに目を向けて生きよう
1つひとつの挫折をふり返り、私は学習院でなくて成蹊でよかった、お茶の水でなくて聖心でよかった、サンモールでなくてノートルダムに入れていただいてありがたかった、と負け惜しみでなく、しみじみ思います。
ある時、学生たちに「人間というものは、失ったものに目を向けず、得たものに目を向けて生きないとダメ」と話した時、学生の1人が「シスター、今日の話は、すごく真に迫っていた」と言いましたが、それもそのはずなのです。
もちろん、第一志望が叶えられたら、おめでたいことだし、良いことです。しかしながら、挫折を経験することは人生にとっては非常にたいせつなことであって、その時にはそれなりに、しっかり苦しんだらいい。ただ、それに打ちのめされることなく、それだけが自分を生かす唯一の道ではないのかも知れないと考えるゆとりがほしいものです。
所詮、人間が見通せることには限りがあって、長い目で見ると、案外、物事は異なる評価を持つものですから。
「神の思いは、人の思いにあらず」という聖書の言葉が、本当にそうだと思えるようになるためには、いくつかの挫折を経験し、そこから、自分の「思い」の浅はかさに気づくことが、どうしても必要なようです。
謙虚さ(Humility)は、はずかしめ(Humiliation)を受けずには得られないと習ったことがありますが、そういうことなのかも知れません。