原発賠償の摩訶不思議
2011年07月04日 公開 2022年09月12日 更新
「大企業vs.国民」の残滓
政府は5月13日に福島第一原子力発電所事故をめぐる賠償(補償)スキームを決定した。その骨子は「国民負担の最小化」にあるとされる。一見、耳ざわりがよい言い回しではあるが、少し考えるとこれほど摩訶不思議な方針(?)はない。
賠償額を一定とするなら、そのために必要な負担の大きさが変わることはない。無から有を生み出すことはできない。当たり前である。そして賠償金を外国が負担してくれるわけはないのだから、日本国内の経済主体が負担するしかない。結局は賠償の問題は誰が負担するかという分配の問題なのである。
国内の誰が負担するのか。第一義的には東京電力関係者ということになるのだろう。同スキームにおいても、東京電力のできるかぎりのリストラ、資産売却を前提とするとしている。これを受けて、東京電力は役員・幹部報酬の一部抑制や顧問制度の廃止、資産売却などの方針を打ち出している。
しかし、その一方で株式上場は継続され、社債は表面上保護されるなど東電存続を前提とした方針になっており、会社更生法や国有化等の大幅な改変を伴わないため、その効果には疑問が残る。象徴的なのは13日の予算委員会での、清水正孝東京電力社長の退職金・企業年金削減への抵抗だ。既存の組織が、外部からの圧力なしに、自発的にリストラを継続すると考えるのには無理がある。
現在はまだ東京電力の処理に耳目が集まっており、月額40万円といわれる同社の年金削減なしの賠償案が受け入れられるとはとても思えない。しかし今後、世論の注目が去るにつれて、賠償のための経営改革は容易に骨抜きにされかねない。
現在の方針では、東京電力への負担はきわめて緩やかなものになりかねない。もともと東電とその関係者への負担だけではとても足りない必要賠償額であり、電力各社の協力を得たとしても、この事情は変わらない。そのなかで次なる「国民以外への負担」として政権が注目したのが、金融機関の対東電債権の放棄・減免である。
17日の閣議後記者会見で枝野官房長官が言及した債権放棄・減免要請は、主要閣僚にも、一部を除き基本的な支持を得ているようだ。ここにみてとれるのが民主党の一部に残る「大企業vs.国民」という、あまりにも古い経済認識の残滓である。
金融機関等の「大企業の負担」は「国民負担」ではない、というわけだ。現代においてなお、このような単純な詭弁に騙される国民など、いるのだろうか? たしかに法人は国民ではない。しかし、大企業の従業員はもちろん、その取引先、さらには従業員の日々の消費活動にまで思いを巡らせるならば、「大企業の負担」は非常に裾野の広い国民負担を生じさせざるをえない。繰り返しになるが、国民負担の総額を圧縮することはできないのである。
本丸は「財政問題」
通常の企業破綻のプロセスでは、債権者は「潰れるような企業に貸した」という意味での貸し手責任を問われる。しかし金融機関は、東電を公企業ととらえて政府の暗黙の保証を前提に貸し付けを行なっている。これは東電への貸し付けの金利をみればわかる。その意味で、東電への貸し付けは国債保有に近い性格をもつといってよい。
19日会見での枝野長官は、債権放棄・減免方針に反対する金融機関、同関連団体に対する再反論という文脈で、「(東電は)普通の民間企業と違うのは当然だ」と発言した。これは反論になっていないどころか、要請に根拠がないことを自ら宣言しているようなものだ。東電は普通の民間企業ではない。したがって、貸し手責任ルールは適用できない。
世論調査の支持率、政党内での発言力の低下において東日本大震災前に死に体であった菅内閣は、皮肉なことに震災の発生によって延命している。そのなかで広く国民に負担を求める提案が困難であることはわかる。大問題ではあるが、その構造は単純だ。賠償は、東電に十分な責任を負わせたうえで、広く国民の負担によって行なう以外の方法はない。
残された問題は二択だ。電力料金の値上げか、財政負担かである。このいずれを選択するかはマネジメント上の問題となろう。電力料金の値上げによる調達には二つの問題が残る。一つが産業への負担が生産拠点のさらなる海外流出を促進するという問題であり、もう一つは現行のスキームでは電気料金値上げによって生まれる電力各社の営業余剰が本当に賠償に振り分けられるのかという問題だ。企業が利益を圧縮するのは困難なことではない。
すると賠償問題の本丸もまた財政だということがわかる。問題は、国債調達の際に何年で償還するのかの一点に絞られている。財政問題を「みたくない」のかもしれないが、問題の根幹が「ここにある」以上避けて通ることはできないのだ。