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テクニクス復活へと導いた企業人演奏家の信念と手腕

『衆知』編集部

2016年12月17日 公開 2023年01月19日 更新

テクニクス復活まで準備期間わずか4カ月

2014年5月、小川さんに転機が訪れる。テクニクス復活のプロジェクトを指揮するリーダーに抜擢されたのだ。

「1965年に誕生したテクニクスは、長年ファンに愛され続けたものの、2000年代に入って高級オーディオを取り巻く環境が大きく変わったことなどがあり、一時的に休眠していました。ところが、近年、インターネットの通信速度の向上でリッチな音楽コンテンツが配信できるようになったことで、テクニクスで追求していた『いい音』にもう一度挑みたいという気運が、技術者たちの中に湧き上がってきたのです」

技術者たちはハイレゾリューション(CDを超える大容量高音質の音楽データ)のミニコンポを試作。それが海外の評論家から大絶賛された。テクニクスブランド復活への大きな手応えを得て、プロジェクトは本格的に動き始めた。

だが、本当の苦難はそこからだった。リーダーとなった小川さんは、テクニクス復活の象徴として最高級オーディオ「R1シリーズ」を世に送り出すことを大目標に掲げたものの、与えられた準備期間はわずか4カ月。9月にドイツ・ベルリンで開かれる世界最大の電子機器イベントで発表するというゴールが先に設定されていた。

「それなのに5月の時点では、まだスピーカーの影も形もありませんでした。それらしき箱のようなものができている状態。4カ月後には世界に発表しなければならないのに。正直なところ、この短期間で何ができるんだろうと思いました」

しかし、悩んでいる余裕はない。小川さんはすぐに動いた。テクニクス事業推進室主管の三浦浩一氏とともに、スピーカー生産を手がける三重県の松阪工場を訪ね、力を貸してもらえるよう頼み込んだ。試作機ができれば何度も試聴を繰り返し、理想の音が出せるまで寸暇を惜しんで開発に全力を注いだ。「今考えても、あれは神の業だったとしか言いようがありません」と、小川さんは振り返る。

4カ月の奮闘の結果、新生テクニクスの名に恥じない商品が誕生した。この困難なプロジェクトの成功には、緻密に練り上げた計画や戦略によるところも、もちろんあった。しかし、最大の勝因は、「成功するまであきらめない」という松下創業者の考え方を実践したことだという。

新入社員時代、小川さんは音響研究所の所長から松下創業者のエピソードを繰り返し聞かされた。「幸之助さんはな、開発したばかりのターンテーブルを持っていった時、『ああ、いいものができたなあ』とわが子のようになで回してくれた」。所長から伝え聞いた「創業者の商品に対する思いの深さ」が、DNAとなって小川さんや技術者に受け継がれ、テクニクスを復活へと導いたのかもしれない。

 

※本記事はマネジメント誌『衆知』2016年9・10月号、特集「自分流を貫く」より、その一部を抜粋したものです。

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