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比叡山延暦寺はなぜ、織田信長に焼き討ちされたのか?

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

2017年02月17日 公開 2023年01月05日 更新

比叡山延暦寺はなぜ、織田信長に焼き討ちされたのか?

戦国大名に匹敵する一大軍事力を誇った比叡山延暦寺

永禄11年(1568)、織田信長は室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛し、室町幕府を復興して義昭を15代将軍にすえた。そして将軍のもとで天下布武を実現させるため、畿内の諸大名に対して上洛を求めた。

だが、越前の朝倉義景がこれに従おうとしない。そこで信長は、永禄13年(1570)4月、3万の軍勢で朝倉氏の本拠地である一乗谷へと向かった。

ところがこのとき、全く予想もしない事態が起こった。北近江の浅井長政が織田家との同盟を裏切り、信長軍の退路を断ったのである。じつは長政は信長の義弟であった。信長は絶世の美女といわれた妹のお市を長政に嫁がせて同盟を結んでいた。だから信長にとってはまさかの出来事だった。

だが、浅井氏は古くから朝倉氏とも同盟関係にあった。ゆえに長政は最終的に朝倉のほうを選んだのだ。かくして朝倉と浅井に挟撃されるかたちとなった織田軍は、前後から激しく攻め立てられて壊滅した。このとき信長は、身一つで命からがら京都へ逃げ戻っている。

態勢を立て直した信長は同元亀元年(1570)6月、北近江へ侵攻し、長政の居城小谷城を包囲して城下を焼き払い、さらに矛先を転じて横山城を激しく攻め立てた。同城は、浅井氏にとって諸城との連絡をとるための重要拠点だった。信長はここを攻撃することで、長政を城外へ引き出そうとしたのである。

作戦は見事に成功する。焦った長政は、朝倉氏の援軍を待たず姉川の北岸に出兵してきた。信長はこのとき、友軍の徳川家康をともない、総勢3万の大軍を率いていた。だが翌日に朝倉軍一万が着陣、浅井・朝倉連合軍も2万となった。

合戦は6月28日早朝、浅井・朝倉連合軍が姉川を渡河してきたことではじまった。織田・徳川連合軍は十二段構えで迎撃したが、すさまじい激戦になったようで、最終的に信長が勝利をおさめたものの、誇張もあろうが、両軍あわせて1万5千の犠牲者が出たと伝えられる(姉川の戦い)。

それからも浅井・朝倉と信長の敵対関係は続いた。翌元亀2年(1571)8月、信長は浅井長政の小谷城を攻めたあと、常楽寺に入っている。ところが何の前触れもなく翌12日、いきなり比叡山延暦寺へ向かったのである。

比叡山延暦寺は、織田軍に敗れた浅井・朝倉の兵が比叡山に逃げ込んでくると、これをかばうなど、信長の神経を逆なでしていた。しかも数千の僧兵を抱え、戦国大名に匹敵する一大軍事力でもあった。それが京都の北の山にいるというのは、極めて目障りであった。

もちろん信長も、何の予告もなく延暦寺へいきなり襲いかかったわけではない。事前に警告を発していた。『信長公記』(太田牛一著・桑田忠親校注 新人物往来社)には次のようにある。

「山門の衆徒召し出だされ、今度、信長公へ対して御忠節仕るに付きては、御分国中にこれある山門領、元の如く還附せらるべきの旨御金打なされ、其の上、御朱印をなし遣はされ、併せて、出家の道理にて、一途の贔屓なりがたきに於いては、見除仕り候へと、事を分ちて仰せ聞かさる」

このように、自分に味方してくれたら、延暦寺の所領は元のようにすべて返還すると、朱印状まで渡し、仏教の精神として片方に味方できないというのなら、傍観してもらうだけでけっこうだと頼んだのである。

ただ、「若し、此の両条違背に付きては、根本中堂、三王廿一社を初めとして、悉く焼き払はるべき趣、御諚候へき」(前掲書)と警告した。

だが、それを無視して延暦寺が浅井・朝倉の兵を比叡山に引き入れるなどしたため、信長はついに焼き打ちを挙行したのである。

延暦寺は根本中堂以下、諸堂社ほとんどすべてが焼き払われ、叡山にいた3、4千人の男女は皆殺しにされたという。

数百年ものあいだ、比叡山は王城鎮護の霊場として貴賤から絶大な信仰を集めていた。このため、信長の重臣たちの中には仏罰を恐れ、焼き打ちをためらう者もあり、なかには「悪僧は仕方ありませんが、高僧は助命したらどうでしょう」と進言する者もあった。

が、信長はこれを黙殺した。このため、国宝、経典、古典類などは焼亡し、比叡山からは4日間黒煙が上がり続けた。

なお、近年は信長が主に焼き打ちしたのは比叡山の山中ではなく、麓の門前町・坂本だったという説が強くなっている。この時期、延暦寺の堂宇の多くは、不便な山上ではなく、麓の坂本あたりに集中していたようなのだ。というのは、発掘調査の結果、比叡山の山中から建物の焼け跡があまり見つからないのである。

いずれにしても、当時の延暦寺の僧侶たちの多くは肉食や女犯をしており、金銭の貯蓄に励むなど、堕落しきっていたという。

「山下の男女老若、右往左往に癈忘致し、取る物も取り敢へず、悉く、かちはだしにて、八王寺山へ逃げ上り、社内へ逃げ籠る。諸卒四方より鬨音を上げて攻め上る。僧俗・児童・智者・上人、一々に頸を切り、信長の御目に懸くる。
是れは山頭に於いて、其の隠れなき高僧・貴僧・有智の僧と申し、其の外、美女・小童、其の員をも知らず召し捕へ召し列らぬる。御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、是れは御扶けなされ候へと、声々に申し上げ候と雖も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落とされ、目も当てられぬ有様なり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合せなり」(前掲書)

このように信長は、坂本の老若男女を含め、高僧も悪僧も関係なく、ことごとくその首を斬って殺害したのである。戦後、坂本を含め比叡山一帯は、明智光秀が領することとなり、比叡山の所領はすべて没収され、信長の生きているうちは決して再興は許されなかった。こうして王城鎮護の地は、完全に地上から消滅したのである。

 

※本記事は、河合敦著 『「お寺」で読み解く日本史の謎』(PHP文庫)より、その一部を抜粋編集したものです。

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