坂本龍馬(写真:国立国会図書館)
※本記事は、蓑宮武夫著『ビジネスマン龍馬』より、一部を抜粋編集したものです。
龍馬の魅力に、苦労話がないことが挙げられるのではないか。海舟が失脚して神戸海軍操練所が閉鎖されたときは、自分の身の振り方一つ考えるだけでも、常人なら顔色が変わるところである。
ところが、8カ月かそこいらのうちに、江戸だ、大坂だ、鹿児島だ、長崎だ、下関だ、と駆けずり回って、「亀山社中」を立ち上げてしまう。しかも、薩摩藩と長州藩にしっかり根を張ってしまう。顔色が変わるどころか、涼しい顔で幕末の1ページに名を残してしまう。
「あのときはたいへんだったぜ。だってさ...」
そういいたくなるところだが、そういう苦労話一切聞こえてこないのである。
龍馬マジックの種を明かせば、次のようなことであろう。
幕府ににらまれて、表向きは恭順の態度を取りつづける必要のある長州藩は、長崎貿易で近代装備の火器・艦船を調達できないから、龍馬が薩摩藩名義で調達できるように便宜を図った。
そのために「亀山社中」の高松太郎(坂本直(なお))や上杉宗次郎(近藤長次郎)に命じて、長州藩の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)を薩摩藩の小松帯刀(たてわき)に周旋させた。
小松帯刀は、伊藤・井上から薩摩藩名義で武器の調達を依頼されると、幕府をはばかることなく、快く引き受けた。
「亀山社中」のメンバーは神戸海軍操練所時代の練習生が中心で、河田小龍門下の上杉宗次郎、赤づら馬之助こと新宮馬之助、龍馬の姉千鶴の子の高松太郎、龍馬と一緒に脱藩した沢村惣之丞、元土佐勤王党員・千屋(ちや)寅之助(菅野覚兵衛と改名)、元紀州藩士・陸奥陽之助(宗光)らに、龍馬が右腕と頼む池内蔵太(くらた)が新しく仲間に加わってきた。長崎の亀山に本拠を置いたため「亀山社中」を名乗ったもので、薩摩藩から各人に毎月三両二分ずつ支給され、長崎で航海訓練を行う合間に、薩摩藩が購入した「海門丸」を鹿児島に回漕するようなことを仕事にしていた。
彼らは長州藩に引き渡す武器の調達がつくまでの期間を利用して、ちょうど回漕することになっていた「海門丸」で鹿児島に行き、同行させた井上聞多を薩摩藩の家老らに引き合わせる労をとった。戻るときには「海門丸」に加えて「胡蝶丸」の二隻として、長崎で待つ伊藤俊輔から調達のついたミニエール銃 4,300挺、ゲベール銃 3,000挺を受け取り、それを積み込んで長州に届けた。伊藤も購入を予約した「ユニオン号」で間もなく長州に戻った。
その間、龍馬は京にいて、「亀山社中」のメンバーに任せきりだった。龍馬が下関に乗り込んだのは、西郷の依頼で上洛する薩摩軍の兵糧米を下関で調達できるようにするためであった。もちろん、武器・艦船を調達できてご機嫌の長州藩が断るはずがない。
強いていえば、これが龍馬の奔走パターンではないかと思う。龍馬はソニーの井探さんがよくいわれた「説得工学」のエキスパートなのだが、口八丁の弁舌家というより、目の前の事実に語らせて納得させる方法を心がけた節がある。
対照的なのが中岡慎太郎ではなかったか。
薩長同盟への動きが兆しはじめる前の長州藩は、観念的な尊皇攘夷を振りかざして手がつけられない感じであったが、中岡慎太郎は違和感なく溶け込み、フランス革命を例にとって尊攘激派を理論武装したのであった。
長州藩にはそれでよかったが、薩摩藩の西郷らにはあまり受けがよくなかったかもしれない。中岡が龍馬に負けないくらい「薩長同盟」のために奔走しておりながら、現実には影が薄いのは、理論派だったためではなかったか。
龍馬の奔走パターンのもう一つの特徴は、能力のある者に全権委任するということであったと思う。坂本龍馬という自分しかない徒手空拳の男が「一人で天下を動かす」働きをするためには、分身をつくらなければならない。どうやってつくったかを、龍馬はあれだけ書き残した手紙の中でまったく触れていないのであるが、パターンとして理解するには「薩長同盟」の仕上げの場面が最もわかりやすく鮮明である。
細かい動きを追うと煩雑になるので、いきなり龍馬が桂小五郎を二本松の薩摩藩邸へ送り出したところから述べよう。
桂が品川弥二郎と下関を出たのは慶応元年(1865)12月26日であった。もちろん、二本松の薩摩藩邸には西郷隆盛がいる。龍馬はここまでやっておけば同盟は実現したも同然とみなして、手を放してしまった。「ユニオン号」の扱いに関して長州藩ときちんと取り決めなければならなくなったためである。
「薩長同盟」の仕上げと「ユニオン号」の交渉とどちらが大事か、第三者の手に委ねるとしたらどちらを任せるか。常人の感覚なら、スポットライトを浴びる肝腎の場面を見向きもしないで、別の奔走に時間を割いてしまうというような発想は考えられないことである。それを龍馬は当たり前のように行動してしまう。習慣化されパターンとして定着していないと、なかなかこうはいかない。
幸いなことに、桂と西郷がつまらない面子(メンツ)にこだわって、時間が止まった状態で龍馬の再登場を待っていてくれたから、私は龍馬のパターンに気づくことができたのである。
桂小五郎が上洛して二本松の薩摩藩邸に入ったのは慶応二年(1866)1月8日のことであった。西郷、小松、大久保が応対するが、「薩長同盟」の件は話題にしない。桂にしてみると、自分から口に出すと薩摩藩に援助を請うようなかたちになるから、西郷から言い出すのを根気よく待った。
「ユニオン号」の問題が片づいて、龍馬が京へ来て二本松に現われたのは19日の夜であった。ところが、龍馬の腹づもりではとっくにまとまっているはずの「薩長同盟」がまったく話し合われていないという。
桂は龍馬の顔を見て、憤懣(ふんまん)やる方ない面持ちでいった。
「明日は長州に引き揚げようと思う」
「まあ、まあ、そがなことおっしゃらんと」
龍馬は直ちに西郷に面会して桂の苦衷を伝え、「薩長同盟」 の同意を取りつけた。こうした行く立てを経て、1月21日、龍馬が立ち会って、「薩長同盟」がようやく成立をみたのであった。
以上の奔走パターンに、身一つの龍馬が歴史に残るあれだけのことをやれたのだと思う。会社でも、実績をあげるには、有能な人間には能力に応じて可能なかぎり権限を与えて結果を出させるわけであるが、龍馬は働ける人間を働かせる天性の名人だったのだろう。ただし、下士身分で藩の面子など考えたこともない龍馬には、西郷と桂の駆け引きは想像の外であった。