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家業の倒産からゲーム会社へ…シブサワ・コウ「好きなことを仕事にする」

シブサワ・コウ(コーエーテクモホールディングス社長)

2017年04月30日 公開 2017年05月02日 更新

「苦手だ」「嫌だ」という仕事にこそ、最大の学びがある

シブサワ・コウ「0から1を創造する」「陽一、足利にすぐに帰ってきてくれないか」

結婚し、子供にも恵まれ、東京で営業の仕事に邁進していたある日、父からこんな電話がかかってきました。

明成商会には10年ほどお世話になる予定でした。しかし父は、4年と少しの時が経った時点で「帰ってこい」という電話をかけてよこしたのです。

「うちの仕事を手伝ってほしい」とのことだったので、仕方なく明成商会を退職し、急遽、足利に戻りました。

なにかおかしい。これはいったい……。父の仕事を手伝ううちに、さまざまな疑問が湧き起こります。

父の本来の仕事はお客様のところに伺って、商品を売り込んだり交渉したりすることです。ところが、足利に帰ってみると、父は毎日、朝から晩まで銀行ばかりを訪問している。

訪問の目的は資金繰りの交渉でした。私が三代目として継ぐことになっていた襟川産業は極めて厳しい状況に追い込まれていたのです。私にすれば、まったく想定外の事態でした。

1950~60年代、日本の繊維産業は、織れば万のお金が生まれることから付けられた「ガチャマン景気」と呼ばれる好景気で、わが世の春を謳歌しました。しかし、70年代に入ると、急速に衰退していきました。東南アジアの安価な繊維製品がどんどん日本に入ってくるようになったからです。日本の繊維産業を取り巻く環境は急速に、そして劇的に変わっていったのです。

繊維不況は足利の町も襲いました。父の会社の取引先も次々に廃業したり倒産したりしていきました。

取引先が減少していくと、当然、父の会社も苦境に立たされます。資金繰りが圧迫され、立ち行かなくなっていきました。父が銀行各行を飛び回っていたのは、なんとかお金を融通してもらうためでした。

しかし、時代の流れに抗うことはできない。有力な取引先の倒産が引き金となり、家族会議を開いて、「廃業しよう」という結論に達しました。

実質的には倒産なのですが、「倒産」と言うと、父は激怒しました。父の思いでは、倒産ではなく、会社整理なのです。

会社を整理すると決めたとき、私は父の涙を初めて見ました。私の手をグッと握り締め、無念の表情を浮かべたのを今も鮮明に覚えています。三代目に引き継げず、自分の代で途切れてしまう悔しさと寂しさがあったのでしょう。

倒産にせよ、会社整理にせよ、会社が追い込まれて畳まざるを得なくなると、これまでの人間関係は一変します。そのことは嫌と言うほど思い知らされました。昨日までは「襟川さんのご長男」と立ててくれていた取引先が倒産(ないしは会社整理)が決まると、態度が激変するようなこともありました。テレビドラマのような状況がそこにはあったのです。

しかし、本当にたいへんだったのはそれからです。残務整理が待っていたのです。債権者委員会ができて、会社の整理が進行していきました。会社の資産や、担保に入っていた個人の土地や建物を順番に売却し、50人ほどいた社員は縁のあるところに採用していただいたり、独立したり、それぞれ身を立てていきました。

残務整理の期間中は徹夜続きのこともありました。深夜にトラックで会社に乗りつけて、会社の資産を持ち去られるようなこともあったので、会社に泊まり込んで、見張りをしなければいけないこともありました。

1970年代の地方でのこと。今よりずっと荒っぽいことが横行していたのです。債権を買い取ると言いながら詐欺のような話もあったし、怖い人たちに依頼して強制的に取り立てにくる会社もありました。

父親は廃業を決めた翌日に持病の十二指腸潰瘍を悪化させて、当時、東京の飯田橋駅近くにあった東京警察病院に入院しました。強面の人たちから逃れる意味もあって、警察病院を選びました。警察病院は文字どおり警察と縁の深い病院です。彼らもさすがにここまでは来ないだろうという判断からでした。

定期的に開かれていた債権者集会はときおり怒号に包まれました。「どうなってんだ!」「カネ返せ!」。大きな声を張り上げる人たちもいました。悪いのはこちらですから、ただただ頭を下げてお詫びし続けていました。

その後、残務整理には半年以上かかりました。襟川産業と襟川家の全資産の処分をする本当につらい作業でした。しかし、その過程で、私は大切な勉強をさせてもらったのです。いちばん大きな収穫は決算書の何たるかがわかったことです。

大学の商学部で簿記は勉強しましたが、あまりまじめな学生ではなかったこともあり、実践では使えませんでした。明成商会時代は営業をしていたから、決算書とは無縁でした。

だから、当初は悪戦苦闘したけれど、毎日毎日、会社の資産を処分し、日々変わる貸借対照表(B/S)を追ううちに、決算書を作ることの意味合いを身をもって理解できるようになっていきました。なにしろ毎日、決算をしているような状況だったからです。

さらに、損益計算書(P/L)の見方、作り方も覚えて、財務に関する実際的な知識は図らずも深められていきました。自分の行動が(B/S)、(P/L)にどう反映されるのか、直接的に理解することができたのです。結果論ではあるけれど、のちの起業と経営でこの経験は本当に役立ちました。

きつい、つらい、苦手だ、嫌だ。思ってもいない仕事が巡ってくると、そう思って、逃げる人もいます。

「この仕事は俺には向かない」「こんな仕事をするために、この会社に入ったんじゃない」「この仕事は別の人がやるべきだ」などと思って、辞める人もいるかもしれません。

好きなことを仕事にしたほうがよい。それはまったくそのとおりなのですが、好きな仕事だからといって、好きなことだけできるわけではもちろんありません。取引先や利用者とのやりとりの中で、あるいは開発チーム内でのやりとりの中で、苦手なこと、嫌なこととも向き合わなければならない場面はたくさん出てきます。

そうしたことにも真正面から真摯に向き合ってこそ、人は仕事において成長できる、やりがいを得ることができるのだと思います。私自身も、この残務整理の経験を経て、仕事や経営に対する見方が一段も二段も深まりました。当然、望んだ仕事ではなかったけれど、嫌な仕事に逃げずに向き合ったことが実力を伸ばしてくれたのだと思います。

 

※本記事は『シブサワ・コウ 0から1を創造する力』(PHP研究所刊)より、一部を抜粋編集したものです。

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