「神様の女房」松下むめの の “生きたお金の使い方”
2011年10月15日 公開 2022年10月05日 更新
この妻なくして、松下幸之助はなかった、あるいは今日の松下電器はなかったといっても過言ではない…。
一代で世界的企業を創りあげた松下幸之助をかげで支えた妻が、希有な人生を屈託なく、おおらかに語る夫婦心得の真髄を語った『難儀もまた楽し』(松下むめの著 1994年9月初版)より抜粋して紹介する。
お金の貸し借り
お金の使い方について少し気のつくことを申してみます。
その前にお金の貸し借りのことです。お金を誰かに貸して、もし返してくれなかったとしたら、やはり貸したほうはいやな感じがしますね。そんなとき、私はこう考えることにしています。貸したのではなくて、それはもうあげたのだと思えばいいと。第一、そのほうが楽なのです。私は、もし誰かがお金を借りにきて貸すときがあったら、「もうこのお金、あなたにあげます」と言うだろうと思います。でもまだ、いっぺんもそのようなことは経験していませんが......。
また逆に、お金を借りて、「ほんとうにあのときはあなたに救われた」と、心からありがたいと思っている方も、あまり記憶にありません。銀行などの場合は、人にお金を貸すのがいわば商売ですから、もしその相手先が危ないと思ったら絶対に貸したりはしません。友だちどうしのお金の貸し借りはするな、せっかくの友だちの関係がそれで崩れてしまう、と世間一般でもよく言いますね。それだけお金に関しては、みな厳しくしているわけです。ですから、私は、お金に対しては決して甘い考えはもっていません。お金のありがたみを知っています。ですから私は、ムダ使いをすることはいけない、分不相応なお金の使い方は絶対いけないと思います。
生きたお金の使い方
また、生きたお金の使い方というのもむずかしいものです。
よく、「あの人は死に金を使う」とか、「生き金を使う」とか世間で言いますけれども、それはその人の見る目と感じだと思います。たとえば、「あの人はいつも死に金を使う」と言われても、その人の立場からすれば、ほんとうは「いや、自分はそれでいいのだ。生きたお金を使っているのだ」と言うかもしれません。そしてまた、「自分はいつも生きたお金を使っている」と言う人がいても、その人が必ずしも、うまくお金を使う人とは思いません。
死に金のほうが逆に生きる場合があると思うのです。くわしくは存じませんが、囲碁なども「捨て石の大切さ」と、よく言いますね。"捨て石"とは、小さな石を犠牲にして、大きな地を得ることですが、そういうお金の使い方もあるはずです。いつもいつも生き金を使われたら、その人の心根が見えすいて、いやなものだと思います。
ご祝儀の場合などもしかりです。かりに旅行をしたとします。ホテルなり旅館なりに泊まった場合のご祝儀をあなたならどうしますか。世間一般ではそういう場合、ご祝儀は先にお渡ししてあげなければいけないということになっています。でも、私はそのご祝儀は先にあげるべきものではない、いろいろとお世話になって、そのあと、「ほんとうにお世話になりました」ということで、心をこめてさしあげるものだと思っています。
いつか、「私はいつも先にあげるのよ」と言っている人に尋ねてみたことがあります。「あなた、何でご祝儀を先にあげるの」と。そうすると、その人は「先にご祝儀をあげなかったらサービスが悪くなるから」と言うのです。それだったら、あとにご祝儀を渡すようにして、もしサービスが悪かったら、そのときは、ご祝儀をあげなくてもいいのではないでしょうか。先にご祝儀をあげた人は、そのあげた価値のサービスをしてもらえなかったとしたら、いろいろと不満、不足を言うだろうと思います。それをあとであげることにすれば、あげるほうも「ああ、いろいろやっかいになって、あの人よくしてくれたなあ」と思って、心うれしくさしあげられると思うのです。これも死に金の1つです。先にご祝儀をあげるのが生き金で、その心根が見えすいています。
娘の幸子は、何でも割り切って使うと言っていますが、あんまり生かして使おう、生かして使おうと、それにとらわれすぎてはいけないと思います。"捨て石"であってこそ生きる場合もあるのではないでしょうか。