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明治神宮~初詣の参拝者数全国1位の神社、その意外な誕生秘話

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

2017年12月30日 公開 2023年01月05日 更新

明治神宮~初詣の参拝者数全国1位の神社、その意外な誕生秘話

初詣の参拝者数が全国で一番多い神社といえば、いわずと知れた明治神宮。しかし、明治神宮がどのような経緯で創建されたかというと、ご存じない方も多いのではないだろうか。初詣シーズンを控え、日本人として知っておきたい明治神宮の歴史を、歴史作家の河合敦氏が解説する。
 

祭神の歩みとは?

明治天皇を祭神とする東京の明治神宮は、徳川家康の日光東照宮とは異なって、明治天皇の墓所は存在しない。また、神社とは離れた場所に「外苑」を持つ何とも不思議な形態をとっている。いったいどのような経緯で明治神宮が生まれ、そして外苑がつくられたのか。そのあたりについて詳しく紹介していこう。

明治天皇は、孝明天皇の第二皇子として嘉永5年(1852)に権大納言の中山忠能の娘・慶子を母として誕生した。ペリーが来航する一年前のことであった。名を睦仁といった。

父・孝明天皇の急死にともない、皇太子を経ずして慶応3年(1867)に即位した。まだ16歳(満年齢14歳)の少年であった。同年10月、幕府が大政奉還したのを受け、12月に王政復古の大号令を発し、新政府を樹立した。

ただ天皇は、少年ゆえに政治の実権を持たず、新政府は薩長倒幕派の牛耳るところとなった。

明治時代になると、一世一元の制が定められ、天皇一代につき、元号は一つとする法令が成立した。ちなみに明治という元号は、岩倉具視の指示を受けた越前福井藩主松平春嶽がいくつか候補を決め、明治天皇がクジを引いて決定したという。戊辰戦争で新政府が全国を統一した後も、明治天皇はしばらく政治権力はもたなかった。

ただ、政権の象徴として、たびたび地方巡幸をおこない、国民に新しい支配者であるということが急速に浸透していった。

明治10年代に入ると、明治天皇の意を受けて佐々木高行など宮中(宮内省)の側近(侍補)を中心に天皇親政運動が展開されたが、伊藤博文など行政側の高官の反対にあい、うまくいかなかった。けれど以後、明治天皇が閣議に参加することは多くなった。

政府の実力者・伊藤博文が憲法草案をつくって枢密院で天皇臨席のもとこれを審議させたとき、天皇の権限をめぐって両者の間に多少の対立があったが、明治22年(1889)、日本帝国憲法が制定されると、明治天皇は立憲君主の立場をしっかりと受け入れたとされる。

その後、日本は、猛烈な殖産興業政策を展開し、富国強兵に成功して日清・日露戦争に勝って列強諸国と肩を並べるまでになった。

明治天皇は、そんな強国日本の象徴的存在であり、国民の精神的支柱だといえた。

だが、日露戦争での心労もあってか、明治45年(1912)になると、持病の糖尿病が悪化して慢性腎炎から尿毒症に陥り、7月29日に崩御したのである。満年齢で59歳であった。ただし諸事情により、崩御の日は7月30日とされた。
 

創建運動を主導したのは、あの大実業家

冒頭で、明治天皇の陵墓は東京には存在しないと述べたが、では天皇の墓所がどこにあるかをご存じだろうか。

じつは、京都の桃山に存在するのだ。

これは、明治天皇本人の遺志であった。明治36年、京都に行幸したさい、皇后と夕食をとりながら昔話をしていた。すると突然、「もし自分が死んだら、京都の桃山に山陵をつくって葬って欲しい」と述べたのだという。

その遺言は果たされたが、当然、皇居のある東京の人びとは、陵墓が東京近郊につくられると信じており、崩御後すぐに御陵建設請願運動も始まっていただけに大いに失望した。しかし、まもなくして「明治天皇をお祀りできる神社をつくろう」という運動が盛り上がる。

中心になったのは、大実業家であった渋沢栄一、東京市長の阪谷芳郎らであった。

運動の始まりは、天皇崩御の2日後のこと。渋沢、阪谷、そして東京商業会議所会頭の中野武営の3人が集まり、明治天皇の陵墓を東京につくるため陳情をおこなおうと話し合ったのがきっかけだった。ただ、天皇の遺志により陵墓は京都と決まっていると知ると、彼らは天皇を祀る神社を創建する運動へと舵を切った。

8月9日、渋沢らは東京の有力者100名以上に呼びかけて神社を創建するための有志委員会を立ち上げた。そして8月20日、「覚書」と題する具体的な神社建設案を全員一致で可決した。

その計画によれば、明治天皇をお祀りする神社は、内苑と外苑からなり、内苑の場所は代々木御料地として国費で造営し、それとは別の外苑は候補地を青山練兵場とするというものだった。外苑には、明治天皇の記念館などを建設することも記されており、このときの青写真が後にほぼそのまま採用されることになったわけだ。

ただ、明治天皇を祀る神宮を誘致しようとしたのは東京だけではなかった。

各地からも続々と要望がおこり、政府としてもいろいろと検討したようだ。遠くは富士山、箱根山、筑波山、近くは上野公園、駿河台、小石川植物園、井の頭公園なども候補地の一つであった。

渋沢らはこの「覚書」をもとに西園寺公望総理大臣、原敬内務大臣など閣僚らに実現を働きかけた。また、大隈重信、山県有朋、桂太郎など政府の実力者たちにも面会を求めて協力をあおいだ。

渋沢ら有志の動きは新聞で逐一報道され、国民的な関心を誘った。どうやらこれも渋沢らの、政府を動かすマスコミ戦略だったらしい。さらに、渋沢をリーダーとする有志委員会に属する代議士たちが中心になって、衆議院に明治天皇の神社を建設する請願・建議を提出、満場一致で可決された。同じく貴族院でも可決された。こうして政府にプレッシャーを与えた結果、ついに大正2年8月、原敬内務大臣は「明治天皇奉祀ノ神宮ニ関スル件」を閣議に提出して10月に決定され、原敬内務大臣を長とする「神社奉祀調査会」がつくられた。当然、その委員として渋沢と阪谷も選ばれた。かくして翌年2月、鎮座の地が渋沢らの「覚書」のとおり代々木の地に決まり、翌大正4年、内務省に明治神宮造営局が設置されたのである。

渋沢と阪谷も造営局の評議員として、その後も明治神宮の造営にかかわることになった。社殿の建築を担当したのは、社寺建築の第一人者だった伊東忠太である。伊東は最終的にもっとも日本に普及している素木造(しらきづくり)の銅板葺(どうばんぶき)、その建築形式は流造(ながれづくり)を採用した。

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パワースポットの由来、神宮外苑が造営された理由

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