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平清盛出生の謎と京都・八坂神社の関係とは

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

2015年07月27日 公開 2023年01月05日 更新

《PHP文庫『神社で読み解く日本史の謎』より》

神社で読み解く日本史の謎

八坂神社と平氏政権の発展との関係

 

なぜ武士が太政大臣になれたのか

 京都の八坂神社は、かつて祇園社、祇園神社、感神院などと呼ばれ、昔から京都の人々に親しまれてきた。ただ、八坂神社がいつ成立したかについては、諸説あってよくわからない。

 7世紀半ばに高麗の使節である伊利之がアマテラスの弟であるスサノオ(仏教では牛頭天王)をこの地に祀ったのが、神社のはじまりだともいわれている。

 山鉾の巡行で有名な京都を代表する祭りである祇園祭は、もともとはこの八坂神社の祭礼だった。あまり知られていないが、そもそもこの祇園祭は怨霊を鎮めるために始まった祭であった。9世紀後半になると、疫病や自然災害は、早良親王、伊予親王、橘逸勢など、この世に怨みを残した怨霊によって引き起こされると信じられるようになり、こうした怨霊(御霊)を鎮めるために御霊会が各神社でおこなわれるようになった。

 祇園祭はそんな御霊会の代表なのだ。

 ところでこの八坂神社は、平氏政権の発展と大いに関係がある。そのあたりについて今回は詳しく語っていこうと思う。

 平氏政権を樹立した平清盛は、武士でありながら太政大臣にまでのぼった。この役職は、朝廷の最高職である。そんな職に地位の低かった武士出身の平清盛が就任し、政権を握ることができた理由については、日本史の教科書でも納得できる説明がなされていない。

 たとえば山川出版社の『詳説日本史B』(2015)では、「平治の乱後、清盛は後白河上皇を武力で支えて昇進をとげ、蓮華王院を造営するなどの奉仕をした結果、1167(仁安2)年には太政大臣となった」とある。ただ、後白河上皇の軍事力となったり、寺を建てただけで武士が太政大臣になれるものなのだろうか。

 じつは、天智10年(671)に大友皇子が太政大臣に任じられて以後、清盛までのおよそ500年間に、太政大臣はたった30人ほどしかいない。単純に割り算して16、7年に1人しか任命されていないことになる。また、孝謙女帝に寵愛された道鏡を除いて、いずれも皇族か摂関家(藤原氏)の出身なのだ。

 さらにいえば、清盛の後も太政大臣の職は、皇族や摂関家に限られている。武家出身者が就任するのは、なんと、清盛の就任から200年以上のちの室町幕府3代将軍の足利義満まで待たなくてはならないのだ。

 教科書では、「平氏が全盛をむかえるようになった背景には、各地での武士団の成長があった」(『詳説日本史B』)と述べ、だから清盛を中心とする平家一門が高位高官に就いたのだと説明する。たしかに、保元・平治という2つの朝廷の抗争は、武士の軍事力なしには解決できなかったのは間違いない。しかし清盛が太政大臣に就いたことや、平氏が高位高官を独占した理由としては弱すぎるのだ。

 なぜなら平氏を滅ぼし、武士政権を樹立した源頼朝でさえ、朝廷での官職は権大納言に過ぎないからだ。大納言というのは、太政大臣、左大臣、右大臣に次ぐ役職なのだ。

 では、清盛が朝廷で栄達した理由とは、いったい何なのか。

 おそらくそれは、清盛が天皇の子供だったからだろう。

 この巷説に関して、京都大学の元木泰雄教授は「当時、院近臣家だけでなく、一般貴族においても大臣就任は容易ではな」く、天皇家や摂関家と身内関係になければ大臣就任は困難で、清盛が「王家と何らかのミウチ関係があったとすれば、それは『平家物語』が説く皇胤説しか考えられない。もちろん科学的に実証は困難だが、当時の人々に皇胤と信じられていたことは疑いないだろう。大臣昇進の厳しさを考える場合、本来院近臣家出身でしかない清盛が、容易に太政大臣まで登り詰めることができた原因は、皇胤とする以外に、説明がつかないのである」(『平清盛の闘い─幻の中世国家』角川ソフィア文庫)と述べている。

 

清盛の父は誰か? 忠盛か、それとも……

 平清盛が生まれたのは、永久6年(1118)正月18日のことである。ただ、その母親が誰なのかはしっかり特定されておらず、昔から白河上皇の寵妃である祇園女御だとする説が存在する。

 現在は、その妹が清盛の母親であり、2年後の保安元年(1120)7月12日に彼女が死んでしまったため、幼い清盛は祇園女御の猶子としてその手元で養育されたというのが、かなり有力な説になりつつある。ただ、高橋昌明氏などは藤原為忠の娘だと主張している。

 だが、問題なのは、その父親なのである。

 父親など、平忠盛と決まり切っているではないか、そう思うかもしれない。しかし、当時から清盛の本当の父は、白河上皇だとする説が根強く存在するのである。

 『平家物語』は「ある人の申けるは、清盛は忠盛が子にはあらず、まことには白河院の皇子也」(『平家物語〔二〕』梶原正昭・山下宏明校注岩波文庫)として、その経緯を詳しく語っているので、紹介しよう。

 白河上皇の寵妃・祇園女御は、東山のふもと祇園のほとりに住んでいて、白河は頻繁に彼女のもとに通っていた。あるとき白河は、警護の者を数人ともなって祇園女御のもとへ向かった。五月雨がしとしと降る闇夜だった。彼女の屋敷の近くに御堂があったが、そこからいきなり光る物体が現われたのである。

 頭は白銀の針を磨いて逆立てたようにきらめき、片手に小槌、もう片方に光るものを持っていた。仰天した一行は、「あなおそろし、是はまことの鬼とおぼゆる」と騒ぎたてた。このとき白河上皇は、武勇に抜きん出た忠盛を召し、「あのものを射もころし、きりもとどめなんや」(前掲書)とその退治を命じたのである。

 そこで忠盛は躊躇せず、その鬼へと立ち向かっていった。

 だが、近づいてみると、鬼はさして猛々しくなく、狐や狸が化けているだけではないかと思えてきた。そんな罪もない動物を斬り殺したとあっては、あとで後悔することになる。

 「生け捕りにしよう」

 そう考えた忠盛は、いきなりその鬼にとびかかって組み敷いたのである。

 すると鬼は「こはいかに!」と悲痛な声を上げた。それは、鬼や怪物ではなく、ただの人間であった。しかも60歳くらいの老人だったのである。

 老人はこの御堂に仕える雑用専門の僧であり、取っ手の付いた瓶を持ち、もう片方の手にかわらけに入れた種火を持ち、灯籠に火を灯そうとしていただけであった。その瓶が小槌、種火が光る物体に見えたのだ。さらに雨が降っていたので、濡れないように小麦の藁束の端っこを縛って笠のごとく頭にかぶっていた。それが火に照らされて白銀のトゲ頭に見えたのである。

 まさに「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」であった。

 白河上皇は、このときの忠盛の冷静な行動に「これを射もころし、きりもころしたらんは、いかに念なからん。忠盛がふるまひやうこそ思慮ふかけれ。弓矢とる身はやさしかり」(前掲書)そう褒めちぎり、最愛の祇園女御を忠盛に下賜したのである。

 このとき彼女はすでに子供を妊娠していたので、白河は「うめらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば忠盛が子にして、弓矢をとる身にしたてよ」(前掲書)と告げたとされる。

 結局、生まれた子は男だった。それが清盛というわけだ。

 ところで、現在残っている最古の清盛に関する記録は、天治元年(1124)、彼が7歳のとき、伊勢斎王(伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女)の一行に雑色(雑用をになう者)として加わったというものである。

 それから5年後の大治4年(1129)、清盛は従五位下に叙せられている。この五位以上の位階を有する者を貴族と呼ぶが、12歳の武士階級出身の少年が貴族の列に加わったのは異例といえた。たしかに父の忠盛は、白河法皇の近臣として栄達し、当時は従四位下になっていた。しかしながら、清盛の貴族入りは驚きの目をもって見られていたようで、権大納言の藤原宗忠なども「備前守忠盛男(清盛)、人耳目を驚かすか」とその人事に関して日記『中右記』に書き留めるほどであった。やはりこの異常な人事は、清盛が白河法皇の御落胤だったからではないだろうか。

 保延元年(1135)、清盛の父・忠盛は海賊追討の命を受け、見事に海賊を平らげたが、その功を息子の清盛に譲っている。自分の立てた功績を譲渡できるというのは現代では考えられないが、当時、「家」という観念が強く、伊勢平氏をいっそう発展させるため、老い先短い自分より、御落胤である清盛をより早く栄達させようという親心だったと思われる。

 こうして清盛は、18歳で従四位下にのぼった。翌年、忠盛は熊野造営の功績も清盛に譲渡してやっている。このため清盛は19歳で肥後国の受領(国司)に任じられたのである。

 ここまで来れば、御落胤であることもあり、清盛が三位以上の公卿と呼ばれる上級貴族に列するのはほぼ確実であった。

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清盛のトラウマとなった祇園社乱闘事件

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