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地球上から為替戦争がなくなる日

浜矩子(同志社大学大学院教授)

2012年02月09日 公開 2022年11月02日 更新

 地球上から為替戦争がなくなる日

リーマン・ショックによって、ドルの落日は鮮明となり、次なる基軸通貨が求められた。

しかし、ユーロも円もそれぞれの事情を抱えている。なぜユーロではだめなのか、21世紀の"基軸通貨"は――

「1$=50円時代」の到来を予測する経済学者・浜 矩子氏に、語っていただいた。

「その地域で必要とされ、価値があると認められれば、キヤンディだって通貨になるのです」 (取材:村上敬)

※本稿は、『THE21』2012年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

政治的思惑で生まれたユーロ通貨の脆弱性

リーマン・ショックによって、ドルの落日は鮮明となり、次なる基軸通貨としてユーロに期待が高まるはずでした。しかし、実際にはそうはならず、ドルに対しても値を下げていきました。それは、そもそもユーロという通貨が構造的な欠陥を抱えていることに起因します。

基軸通貨の説明のところでも述べたように、通貨は「通用性」と「希少性」に支えられています。しかし、ユーロという通貨は、そうした経済的な必然性ではなく、政治的事情の産物として生みだされたものです。したがって、本来の通貨としてのじゅうぶんな価値をもち得ていないのです。

ユーロが生まれたきっかけは、89年のベルリンの壁の崩壊による東西ドイツの統一です。欧州各国には、統一によってドイツが強力な力を蓄えてドイツ共栄圏をつくるのではないか、再び戦争を仕掛けてくるのではないかというドイツ脅威論が根強くありました。

その一方でドイツ自身も欧州統合にメリットを感じており、その2つの思惑が合致した結果、欧州連合条約(通称・マーストリヒト条約)が生まれました。その条約のなかに、「単一通貨ユーロの創設」が明記されたのです。

このようにユーロは、その理念はともかく、経済的必然性に乏しい経緯で生まれたものですから、もともと脆弱性を抱えた通貨なのです。財政事情の異なる各国の足並みが揃わず、実際の金融政策もそれぞれの国の事情に基づいて行なわれるわけですから、通貨としての価値を向上させることができていません。

そこに降りかかったのが、放漫財政国家・ギリシャの危機でした。この危機によって、ユーロが抱えている構造的欠陥が、世界の人々の目にも明らかになりました。加えて現在、欧州諸国の多くが輸出主導による経済再建をめざしているため、「ユーロ高」よりも「ユーロ安」を望む国が多い。そうした事情も、ユーロの安定を危うくしています。

昨年12月、フランスのサルコジ大統領が「ユーロがなくなることは、考えられるべきオプションではない」と演説したのは象徴的です。いままでは政治家の口から「ユーロがなくなる」という言葉が発せられたことは決してなかったのに、とうとうそれに言及せざるを得なくなった。つまり、ユーロはそこまで追い詰められているのです。

 

無数の地域通貨が新しい通貨均衡を生む

20世紀までの経済活動の歴史を振り返ると、ポンドにせよドルにせよ、通貨においては概ね一貫して「集約」の論理が働いてきました。各国で生まれた国民通貨のなかから突出した強さを誇る通貨が出現し、それが世界中で通用するようになり、基軸通貨となっていく。つまりこれまでは、通貨の数は時とともに少なくなる方向に動いてきたのです。

しかし、いまや、その時代は終わった。ヒト・モノ・カネが容易に国境を越えるグローバル時代において、突出した通貨の王様が君臨するという構図は成り立ちません。グローバル時代は基軸通貨無き時代なのだと思います。それがこれからの時代の特性だと認識しておくことが必要なのです。

通貨は集約の時代から分散の時代に進んでいく。どうも、それが歴史の成り行きであるように思います。この際、我々も通貨の「集約」という方向性に見切りをつけて、通貨の「分散」という新しい方向性に挑戦するほうが、未来が拓けるでしょう。

つまり、基軸通貨を中心に一部の通貨に収斂(しゅうれん)していくのではなく、よりたくさんの通貨が生まれる「通貨分散時代」の到来を視野に入れるのです。

この新時代を担う通貨として、私が期待しているのが「地域通貨」です。

あるイタリアのエコノミストにこんな話を聞きました。戦後間もないころ、イタリアの通貨であるリラはインフレ状態に陥り、絵葉書1枚が何万リラもする事態に陥ったそうです。これでは日常の買い物をするにも、とんでもない額面のお金が必要になります。

そうなると、お釣りもバカになりません。お釣り不足に困ったある商店主が、お客にお釣りの代わりとしてチョコレートやキヤンディを渡すようになりました。

 お客からすれば、たくさんあってもほとんど価値のない硬貨や少額紙幣をもらうより、チョコレートやキヤンディのほうが、実用性があり持ち運びも簡単なので、町中にその商習慣が広がったというのです。

これは決して笑い話などではなく、通貨の本質を示すたいへん興味深いエピソードです。

なぜなら、リラに代わってチョコレートやキャンディが用いられるようになったということは、それらのお菓子は、その地域で通貨としての「通用性」と「希少性」を持ち合わせていたことになるからです。こういうところに、じつは地域通貨というものの原点があるわけです。

こうして、その地域で必要とされ、価値があると認められるものが地域通貨たり得ます。もちろん、チョコレートやキャンディの通貨は、それだけではその地域限定の商習慣でしかありません。

しかし仮に、ほかの地域の人や他国の人間がチョコレートやキャンディに通貨と同等の価値を認めたならば、それは、次第により幅広い通用性をもつようになるかもしれない。

このように、地域通貨はいわば通貨の原点といえます。通貨分散時代には、世界中の各地域でこうした「地に足の着いた」通貨が生まれ、その地域に根ざしながら、地域経済とともに発展していくことになるかもしれない。そして、この地域通貨が広がっていけば、

遠い国のバブルや財政危機によって、人々の生活が突如として激しく撹乱されることも回避できるかもしれません。

もし、日本各地で地域通貨が誕生し、それが定着すれば、現在の日本を覆う閉塞感も相当に払拭されるのではないでしょうか。あちこちの地域で自律的な経済活動が営まれ、まるで小さな泡がぶくぶくと吹き出すように日本全体を覆っていく。

いわば「小国の群れとしての日本経済」が成り立つとしたら、それはとても活気があり、威勢のいい姿だと思います。

グローバル化の時代に地域通貨はそぐわない、とお考えのみなさんもおいでかもしれません。しかし、グローバル化の時代だからこそ、地域が重要になるのです。グローバル化によって国家の存在感が希薄化すれば、それに伴って国民通貨の機能は低下していきます。

それと入れ替わるようにして地域通貨の存在感が増していくのなら、それは、グローバル化とも整合性が取れた自然な流れだといえるでしょう。

21世紀に入り、世界の人口はさらに増加を続けており、それに伴って世界経済も拡大を続けています。もはや、どんなに通用性の高い="足の長い"通貨でも、ひと跨(また)ぎでカバーしきれる規模ではなくなってきました。その意味でも、ドルのような一国民の単一通貨が世界中に足を伸ばす時代は終わったといえます。

これまでの通貨体制が幕を下ろしつつあるいま、通貨の世界は新たな均衡を模索する時期を迎えています。地域通貨の発展による新しい通貨的均衡が生まれるとしたら、それは、共存、共栄、共生の21世紀にふさわしいといえるのではないでしょうか。

 

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