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生き方

「一番自殺しそうな奴」と呼ばれた人が、死期に望む"ただひとつのこと"

森博嗣(もりひろし:作家)

2019年03月15日 公開

「死後」への欲求はなにもない

僕自身はというと、友人たちからは、「一番自殺しそうな奴」といわれているけれど、実は、人生のどの時点でも、自殺の可能性を考えたことは一度もない。

そもそも、躰が弱く、子供のときには、自分は長く生きられない、と考えていたので、生きているうちに充分に楽しもう、という方針でここまで来た。まさか六十年以上生きられるとは思っていなかった。

だから、現在はロスタイムであり、もういつ死んでも良いと思っているし、もちろん自殺をするつもりはなく、どこかで野垂れ死にすれば、それでけっこうだと考えている。死に方には、なんの拘りもない。

また、死後のことにも、拘りは全然ない。僕の持ち物や財産がどうなろうと知ったことではない。誰かに意思を受け継いでもらいたいなんて、これっぽっちも思わない。僕の持ち物、大事なものも、苦労して作ったものすべて、さっさとゴミにしてもらえば良い。

生きている間はできそうにないが、死んだら未練はない。死ぬというのは、そういうことなのだ。

僕は、自分の名前にもこれといった思い入れがないから、墓もいらない。もちろん、葬式をする必要もない、と家族には伝えてある。

ただ、葬式は遺族が主催するものであり、死んだ本人が出しゃばる問題ではないだろう、とも考えているので、さほど強く主張してはいない。

だいたい、僕の家族は僕のいうことをきかない人たちばかりだ(たぶん、天の邪鬼が遺伝したのだろう)。

生きている今でさえ、僕は有名になりたくない。自分がみんなに認められることに、大きな魅力を感じていない。そういった方面で拘りは皆無だ。そんな人間が死ぬのだから、なにも遺さないし、遺書なんて書かないし、あとは野となれ山となれ、といったところである。

死ぬときに、「ああ、生きられて楽しかったな」と思えれば、それで充分だろう。それ以上に何を求めるというのか。

拘らないというのは、自分のことに拘らない、ということだ。自分に対する拘りに、一番注意を払うべきだ。自分に拘らなければ、当然のこと、他者にも拘らないでいられる。

僕は僕の自由にしている。僕以外の人は、自分の好き勝手にすれば良い。

だから、人に対して僕はあまり意見をいわないし、人のやり方に注文をつけたりもしない。

たとえば僕は、個人の悪口をいわないし、個人の主義主張を非難したこともない。たとえ僕の意見と食い違っていても、全然かまわない。そういうことで人間関係が崩れることもない。

意見が違うのは当たり前のことであり、意見が違うからこそ議論をする意味がある。意見が違うからこそ協力してグループで活動する価値がある。そう考えている。

さきほど書いた死についての僕の意見は、僕にだけ適用すれば良いと思っている。みんなにこうしなさいと訴えるつもりは毛頭ない。

だったら何故書くのか、といわれそうだが、書くことが仕事だからしかたない。

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