"健康にこだわりのない"元愛煙家が、それでも煙草をやめた理由
2019年03月13日 公開 2024年12月16日 更新
(写真:森博嗣)
<<『すべてがFになる』「Vシリーズ」などで著名な工学博士にして作家の森博嗣(もり・ひろし)が発表したエッセイ『なにものにもこだわらない』。
本作では、森博嗣氏が国家公務員としての大学教員の職を捨てて作家専業になったエピソードをはじめ、同氏の「こだわらなさ」が存分に著されている。
同書のなかで、多くの人が「生」や「健康」にこだわる姿に首を捻りながらも、本人はもう「煙草を吸う気がない」と語る。その理由を語った箇所を同書の一節より紹介する。>>
※本稿は森博嗣著『なにものにもこだわらない』(PHP研究所刊)より一部抜粋・編集したものです。
「生」や「健康」への拘り
生きている間にも、「生」に拘る人たちがいる。この場合、それは「健康」と呼ばれる。
現代人の多くが、健康に拘りを持っているのではないだろうか。
貧しい時代には、生きているだけで充分だった。食べるものがあれば充分、寝る場所があれば充分、と考える。豊かな社会になり、食べるものも寝る場所もいちおう確保された。
次にみんなが手を伸ばしたのが「健康」なのだろう。
これは、拘っている人が本当に多いように観察される。僕の奥様も、TVや雑誌で取り上げられた健康グッズやサプリメントを試してみないと気が済まない人だ。
それほど拘るわりに、一つのものが長続きしない。次から次へとシフトしていく。つまり、まえのものは効かなかった、ということだろうか。そもそも、これが効きます、というものが本当に存在するなら、これほど新しいアイテム、健康法が続々と登場するはずがない。
大雑把な話をすると、生きる目的が健康である、というのは、堂々巡りの理屈のようで、僕は首を傾げるばかりである。
たとえば、常に自身を正常に保つ機械や、ハングアップしないように、あらゆるセキュリティを完璧に実行するコンピュータがあったとしても、それがいったい何の働きをするのか、という点が問題になる。
存在するだけで、存在価値があるのだろうか。人が健康に拘る姿勢というのは、それと同じでは?
生きるなら、生きて何かした方が良くないか、ということである。
ただ、今一つ自分でもよくわからない。もしかしたら、生きるだけでも楽しいのかもしれないし、たとえ錯覚だとしても、本人が楽しければ、それで良いではないか、という理屈は正しいだろう、きっと。
若い人が健康に気をつけるのは、これからの人生の基盤をしっかりとさせておきたい、という意欲の一つとして受け止めることができる。でも、年寄りが今さら「健康が生き甲斐だ」といいだしても、僕はぴんとこないという話。