「一番自殺しそうな奴」と呼ばれた人が、死期に望む"ただひとつのこと"
2019年03月15日 公開
(写真:森博嗣)
<<『すべてがFになる』「Vシリーズ」などで著名な工学博士にして作家の森博嗣(もり・ひろし)が発表したエッセイ『なにものにもこだわらない』。
本作では、森博嗣氏が国家公務員としての大学教員の職を捨てて作家専業になったエピソードをはじめ、同氏の「こだわらなさ」が存分に著されている。
驚くことに、同書では森氏がこだわらない対象が「死」にも及んでおり、その結果「一番自殺しそうな奴」と呼ばれることが明かされている。本稿ではその興味深い一節を紹介する。>>
※本稿は森博嗣著『なにものにもこだわらない』(PHP研究所刊)より一部抜粋・編集したものです。
「死」をイメージできる知能
「なにものにも拘らない」からといっても、生き物である以上、生きることに拘っているはずだ。この点については、理由というものを思いつかない。「何故生きるのか」という哲学になってしまう。そもそも、何故生まれてきたのか、から考え始めなければならなくなるだろう。
生き物が、「生」に拘るのは本能であり、これは大前提でもある。そもそも、生きているからなにかに拘ることができるし、また生きているから、拘らないように努力することもできる。
自分の意志というのは、生きているから機能している。たぶん、そうだと思う。死んだことがないので、はっきりと断定はできない。
逆に、「死」に拘るような人もいると思う。死に取り憑かれている、と表現されることもある。どういう状態なのか、具体的に詳しいことを知らないが、いつも「死」が思考の中心にある感じらしい。
ただ、「死」に拘る、「死」ばかり考えているのも、生きているからできることだ。これは否定できないだろう。
「死」に拘るのが特別視されるのは、生きている人のほとんどが、「死」を忘れているように見えるからだろう。「死」を考えないようにしている。
特に、日本人は「死」について話すだけで、「縁起が悪い」と怒ったりする。そういう不吉なことを話題にしてはいけない。
話したり、考えたりしただけで、死に取り憑かれて、悪いことが起こる、といった信仰のようである。そうやって、死を見ないようにする姿勢も、実は「死」を意識していることの裏返しであり、実は「死」に拘っている状態ではないか、とさえ思えてくるが、いかがだろうか。
人間は、自分の死について考えることができる。それを考えられる知能を持っている唯一の動物ではないだろうか。