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赤坂、千早の攻防―日本最弱の兵を率いて大軍と戦った楠木正成

海上知明(NPO法人孫子経営塾理事)

2019年05月17日 公開 2024年12月16日 更新

 

退去する鎌倉幕府軍が狙う楠木正成と護良親王の首級

こうして正成が鎌倉軍の目を引きつけているあいだに、護良親王は紀州国・大和国の鎌倉幕府側の武士の館を奇襲して討つということを繰り返して勢力を扶植し、約3000人の兵とともに吉野で挙兵したのである。これも籠城策である。

正成がこれに呼応して元弘2年(1332年)暮れに河内国の赤坂城、金剛山の千早城で蜂起し籠城する。対する鎌倉軍は『太平記』によれば30万7500騎といわれる大軍である。

この数字は、もちろん誇張であろう。しかし兵は日本全土から招集されていた。四国からは軍船300隻、長門国・周防国からは軍船200隻、甲信地方からは7000騎、北陸からは3万騎、総勢80万騎にも及ぶと書かれている。

ちなみに『神明鏡』によれば48万騎、『保暦間記』によれば5万という数字が挙がっている。「元弘の変」に続いて二度目の大動員である。しかし『太平記』に山陰の兵の記録がなく、長門国・周防国の兵も陸路ではなく海上より寄せたということは、赤松円心の活躍による遮断の効果が大きいと思われる。

元弘3年(1333年)正月、阿曽治時率いる正面軍8万騎が河内道から赤坂城(上赤坂)へ、大仏高直率いる側面軍20万騎が大和道から金剛山千早城へ向かい、二階堂出羽入道率いる一手2万7000騎は紀伊道を経て護良親王立て籠もる吉野城へと向かった。側面軍ながら最大の兵力が千早城に向かったということは、鎌倉軍の重点を示している。

正成は南河内一帯に多くの砦を築き、縦深陣地を構築していた。兵力的にそれだけ強大であったかどうかはわからないが、金剛山を大要塞と化したという説によれば、(最前線前哨陣地)を構成するのが大ヶ塚から持尾に至る線で、第二防衛線(前進陣地)に相当するのが下赤坂城を中心にした一帯、赤坂城(上赤坂)と観心寺を結ぶ一帯が主防御線(本防衛線)であり、詰めの城として千早城があった。

赤坂城と千早城を結ぶ線は約8キロである。護良親王は愛染法塔を本営にして吉野川南岸に4つの塁を築き、丈六平から薬師堂までを第一次防御線、蔵王堂から金峰神社までが第二防衛線を形成していた。

『楠木合戦注文』によれば、鎌倉幕府軍の軍法は優れたもので6カ条からなり

「一、合戦の陣頭において先陣争い統制を乱す者は不忠とす。一、主人が負傷しても退くな、親子、孫が命を落としても退かず戦勝せよ。一、押買、押捕などの狼ろう藉ぜきを禁ず。一、大塔宮護良親王を逮捕、誅殺した者には近江国麻庄を賜る。楠木正成を誅殺した者には丹後国船井庄を賜る」

というものであった。ここでは斎藤実盛が語った関東武者の戦い方が軍法として明示され、今回の戦争目的が護良親王と楠木正成の首級を挙げることという形で明確化されていた。

もっとも戦争を政治の延長上でとらえるとするならば、真に首級を挙げなければならないのは後醍醐天皇ということになる。実際、護良親王と楠木正成が死去した後も戦乱が続いたのは後醍醐天皇という存在があったからである。

しかし、鎌倉軍の戦略と戦術としての攻城方法は単純かつ単調なものである。ひたすら直進しての突撃を繰り返したのである。要塞化された地形で後方の本城と連携しての防衛の前に、この単調な攻め方での損失はおびただしいものとなる。

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鎌倉幕府軍を100日間にわたって釘付けにした「小さな城」

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