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赤坂、千早の攻防―日本最弱の兵を率いて大軍と戦った楠木正成

海上知明(NPO法人孫子経営塾理事)

2019年05月17日 公開

 

鎌倉幕府軍を100日間にわたって釘付けにした「小さな城」

上赤坂方面(赤坂城)での死傷者は一日で600人、千剣破城(千早城)では2月28日に死傷者1800人にも上ったとされる。激戦の末に赤坂と吉野を攻略した鎌倉軍は、『太平記』によれば100万人にまで膨れ上がった。

正成が率いているのはわずか1000人であるが、知略の限りを尽くして幕府方の大軍を翻弄した。大軍を誇る鎌倉軍に対して、正成は城近くまで引き寄せたうえで、櫓から大石や大木を次から次へと落として大混乱に陥れた。

千早城の水断ちを図る鎌倉軍に対して、正成はあらかじめ城内に水槽を200~300個も作らせて貯水していた。

何日たっても水汲みに誰も来ないことに鎌倉軍が油断して見張りをおろそかにした頃を見計らい、正成は優秀な射手200~300人に夜襲を仕掛けさせた。

警護していた名越軍は20人ほどが討ち取られて撤退。正成は奪い取った名越家の旗を城に持ち帰ってはやし立てる。城攻めのときに寄せ手が激怒すると、籠城側の罠にかかる。名越軍は激怒。大挙して城に押し寄せたが、大木転がし攻撃にあって400~500人が圧死、5000人ほどが射落とされている。

千早城の城壁も二重になっていた。攻め寄せた鎌倉軍は外側の壁を倒されたため、6000人も谷底に落ちたという。先の「赤坂城の攻防」から、何も学習していないことがわかる。

軍奉行・長崎高貞は「兵糧攻め」に切り替える。すると正成は、甲冑を着せた藁人形を城の麓に並べた。眼下の寄せ手は、城兵が決死の覚悟で打って出てきたと勘違いした。

慌てて城に攻め登り、藁人形であることに気が付いた時にはもう手遅れ。たくさんの大石が落ちてきて300人が即死、500人が重傷を負ったとされる。

苛立つ鎌倉軍は巨大はしごを作らせた。これに綱をたくさん付け、城に向けて倒し架け、つり橋のようにしたのである。寄せ手の先陣がまさに城内に突入しようとした時、千早城からたいまつが投げ込まれた。続いて油がまかれ、火矢が放たれた。

架け橋は燃え始め、寄せ手は前方は火に、後方は押し出そうとする味方の大軍に阻まれ、身動きが取れなくなった。大混乱の中、橋は耐えることができなくなり、兵たちを乗せたまま落ちていく。

正成の後方では吉野を脱した護良親王が、鎌倉幕府軍の後方攪乱を続けた。こうして、この小さな城の攻防は100日間も続き、大兵力を釘付けにしたため、各地での叛乱が群発し、鎌倉軍は征伐の手が回らなくなってくる。

千早城に兵力を張り付けていることは鎌倉幕府の動員能力を決定的に低めていたのである。これに西国の軍事力が使用できない状態が赤松円心の活躍によって併発し、戦いは鎌倉幕府滅亡に向けて動いていく。

 

戦の勝敗を分けるのは兵隊の強さではない

脆弱な少数の兵で、精強な兵を主力にした桁違いの大軍に勝つということは、常識的に考えれば不可能であったが、正成はそれをやり遂げた。

なぜだろうか? 簡単に言えば、戦の勝敗を分けるのは兵隊の強さではなく、戦略と戦術の優劣だからである。そして、弱い兵を率いている司令官ほど、自軍の脆弱さを知っているから、策を練り上げるのである。絶えず訓練して精強さを保っている兵隊は、たしかに個人としては強い。

しかし、戦は集団同士のぶつかり合いなのである。

東国の兵が、個人の武勇に頼って戦っている限りは、恐ろしい存在ではない。東国の強兵が真に恐るべき存在となるのは、「個人の武勇」という呪縛から解き放たれ、軍事的天才によって組織化され、戦略や戦術の原則に従って行動するようになってからである。

戦国の世になり、上杉謙信と武田信玄が出るに至って、東国の兵は最強の軍団となり、西国や近畿の兵は勝てなくなったのである。

しかし鎌倉幕府下においては、戦略や戦術は忌み嫌われていたから、戦略と戦術に長じた指揮官さえいれば、攻め込んできた鎌倉軍は大軍であったとしても恐れるに足らないものであったのである。

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