日本書紀と古事記…2種類の歴史書が“同時に”生まれた理由
2019年07月10日 公開 2022年12月07日 更新
1986年生まれの新進気鋭の研究者である吉木誉絵(よしき・のりえ)氏が、6月20日にデビュー作『日本は本当に「和の国」か』(PHP研究所刊)を上梓した。
吉木氏は高校時代、アメリカ・ノースダコタ州に留学し、隣州で起こった先住民族の少年の銃乱射事件がきっかけとなり、民族のアイデンティティについて考察を深め、その過程で『古事記』の研究に着手。慶應義塾大学大学院修了後から、コメンテーターとしてテレビなどのメディアに出演。2018年、第一子を出産し、現在は子育てをしながら研究活動を続ける。
『日本は本当に「和の国」か』は「日本人の本来のアイデンティティは、日本の神話である『古事記』が示す「和の国」の姿ではないか」をテーマに日本人の本質を問い直す論考であり、解剖学者の養老孟司氏からも「日本がどのような国か、本気で考えた一冊」と評された。
本稿では同書より、「日本書紀」が存在する一方でなぜ「古事記」が必要だったのかを考察した一節を紹介する。
※本稿は吉木誉絵著『日本は本当に「和の国」か』より一部抜粋・編集したものです。
「正史」は『日本書紀』、では『古事記』とは?
日本の『古事記』も『日本書紀』も第40代の天武天皇(在位:673~386)の勅命により編纂が始まり、『古事記』は712年に上、中、下巻の全3巻が完成、内容は神代から第33代推古天皇の時代まで。『日本書紀』はその8年後の720年に全30巻が完成、神代から第41代の持統天皇の時代まで記述されている。
両書とも国家が編纂した公式な歴史書ではあるが、『古事記』のほうが成立年代が古いことから、『古事記』は現存する最古の書といわれている。
しかし、扱いとしては『日本書紀』の方が正史で『古事記』は江戸時代に本居宣長がその価値を再発見するまで、『日本書紀』の副読本的な扱いに留まっていた。『古事記』が初めて引用されたのは『万葉集』で「古い歌謡や物語の原点」として参考にされているものの、「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」という平安時代前期に宮中行事として何度か行われた『日本書紀』の講読会において、『日本書紀』だけではわからない古い言葉の訓読みを『古事記』から参照していたことからも、あくまで『日本書紀』の補完的存在だったことがわかっている(岡部隆志氏の指摘による)。
では、なぜわざわざ天武天皇は二つの歴史書の編纂を命じたのだろうか。なぜ同時代に似たような二つの歴史書が併存したのかといえば、『日本書紀』は国外向け(東アジア)に書かれているのに対し、『古事記』は国内向けであるから、という編纂方針の違いに起因すると一般的に認識されている。
ちなみに、遣唐使の書物から、702年の遣唐使派遣の際、それまで「倭国」だったのを「日本国」と新しく国号を定めたことを中国(周)の皇帝・武則天に報告していることがわかっている。
中国の大帝国に対し、日本も自立した国であることを表明したのだった。『日本書紀』は、東アジアの中の独立国としての正当性を示そうとしているという意味で、対外意識のもと編纂されたものである。