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日本書紀と古事記…2種類の歴史書が“同時に”生まれた理由

2019年07月10日 公開

吉木誉絵(よしきのりえ: 外交政策センター研究員)

 

『古事記』は変体漢文、『日本書紀』は純漢文

他にも、使用されている言語の違いで、対外向けと国内向けの傾向をみることができる。「日本紀講筵」の際、古語の訓読みはいかなるものかと『古事記』が参照されていたことからわかるように、『古事記』の本文は日本語で書かれている。

より正確にいうと、『古事記』は変体漢文といって、表意文字たる漢字と、表音文字として日本が開発した万葉仮名の両方を混合させたもので綴られている。

一方で、『日本書紀』は当時の東アジアにおける事実上の公用語だった中国語、つまり純漢文(一部を除く)で書かれている。日本という自立した国家の歴史を東アジアに向けて発信するには漢文の使用が欠かせなかったのだ。

また『日本書紀』の神話の部分に相当する「神代紀」は一つのエピソード(本伝)の後に「一書に曰く(別の書を参照すれば)」という文言からはじまる数々の異伝からの引用があり、学術書としての性格が高く、緻密で細やかな異伝への配慮が読み取れる。異伝は国内の文献だけでなく、『漢書』や『三国志』といった漢籍にも及んだ。

編纂を任された天武天皇の第三皇子である舎人親王(とねりしんのう)をはじめとした編纂者たちが、『日本書紀』という存在を、単に天皇の権威を正当化するための役割に留めず、日本という国家の存在を史書として初めて「世界」に示すものだという強い理念に基づき編纂作業にあたったということが、その公平で客観的な編纂方法から垣間見える気がするのである。

但し、中国の古典や法令に沿って叙述したり、易姓革命に似た内容の箇所が見受けられたりと、中国の思想を取り入れて書かれていることには留意しておく必要があるだろう。

 

『日本書紀』は、当時の「近代化」の産物だった

では、なぜここまで対外意識が強まっていたのだろうか。先ほども述べたが、これは単に外国を意識するという程度のものではなく、東アジア、とりわけ中国に対し日本の独立を示すというレベルのものだった。その切迫感は十七条憲法制定のとき以上のものだっただろうと予想する。当時の緊張感を察するには、東アジアがどのような状況だったのか少々押さえておく必要があるだろう。

日本(倭国)は663年に白村江(はくすきのえ)の戦いを経験する。倭国は半島に大軍を送るが、その数はおよそ5万人を超えるとされ、そのほとんどが西日本の豪族や公民だったという(吉川真司氏の記述による)。

しかし倭国・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗する。主な戦いの場は海上で、唐の水軍の攻撃により倭国・百済は夥しい数の死者を出し400艘の船が焼かれるほどの大惨事となった。その後高句麗も唐によって滅亡し、緩衝地帯を失った倭国は唐の直接的脅威に曝されることとなった。

白村江での壊滅的敗北と、唐・新羅による脅威を受けてすぐさまに国内の防衛政策が進められ、このとき百済の亡命遺民の指導を受けて対馬から畿内の要地に山城などの防衛施設が築かれる。

ちなみに、私は実際に岡山県にある山城「鬼ノ城」に登ったことがあるが、復元された門や城壁の猛々しさに圧倒された。このような山城を日本に作らせるきっかけとなった白村江の戦いと、そのとき日本人が身に染みて感じた脅威というのはいかほどだったろうかと思いを巡らせたものである。

白村江の戦いは、ちょうど幕末の黒船来航に日本人がおののいた心情と一致するものではないかと思う。唐からの侵略に対抗できるだけの力を備えるために、国家の体制を「近代化」させるべく、軍事的側面を含め、律令体制を整えていく。

この「近代化」とは、工藤隆氏によれば、ヤマトの核を形成した縄文時代から古墳時代までの神秘的で呪術的な世界観を中心とした反リアリズム的な「古代」から、当時の東アジアにおける最先端の技術やシステムを大陸や半島から導入し律令国家を形成するというリアリズムへの変貌という「古代の近代化」(工藤隆氏の記述による)のことを意味する。

そして672年に壬申の乱が勃発し、その勝利者である天武天皇に権力が集約される。

日本の7世紀代は、それまでと比べて大規模な軍事的経験を得ただけでなく、中国の漢魏をはじめとした大陸文化や古代朝鮮文化を選択的に受容し、律令国家としての道を歩み始めながら、独自の文化も発展した時代だった。中国の古代都城の背景にある中国古代思想や文明を取り入れ、半島から仏教が伝来し、そして日本独自の創意工夫を凝らした「国際色豊かな」(黄曉芬氏の記述による)飛鳥・藤原京が創られた。東アジアの一員としての体裁がいよいよ整ったのである。

『日本書紀』は、いわば当時の「近代化」の産物であり、「政治的リアリズムの強化」(工藤隆氏の記述による)の帰結だった。そのような時代の流れを受けて、七世紀末、天武天皇は『古事記』と『日本書紀』という二つの歴史書の編纂の勅命を下したのだった。

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