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最愛の人に「死にたい」と言われたら? 絶望を経験した親子の“奇跡”

岸田奈美(作家)

2021年01月19日 公開 2022年12月21日 更新

最愛の人に「死にたい」と言われたら? 絶望を経験した親子の“奇跡”

SNSなどでも活躍している作家・岸田奈美さんは、中学生のときに父親を亡くし、弟には知的障害があります。また、岸田さんが高校生のときに母親が大動脈解離の手術の末、下半身が不自由となり車いす生活に。

そんな状況でも、ずっと笑顔でいたお母さんでしたが、ある日、絶望に耐えられなくなり、「死にたい」と娘である岸田さんに告白します。

岸田さんが答えた言葉は「ママ、死んでもいいよ」でした。絶望の中にある人とどう向き合うのか、ある家族のストーリーです。

※本稿は、岸田奈美著『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』(小学館)から一部抜粋・編集したものです。

 

母に「死んでもいいよ」といった日

大阪にある、落ち着いたとは口がさけてもいえない喫茶店、新聞社の記者さんの取材を受けていたときのことだ。

両どなりでは、4人組のオバチャンたちが、怒濤のおしゃべりをくり広げていた。会話の8割が「ちゃうねん」「そんでな」「聞いた話なんやけど」からはじまっていた。

こっちの記者のおしゃべりも、負けていなかった。

「岸田さん、ヤフーニュース見ましたよ」
その日、わたしと母にまつわる話が、ネットニュースでとり上げられていたのだ。

「お母さんに『死んでもいいよ』っていうなんて、すごいですね」

ぴたり。急にオバチャンたちが、静まり返った。
待て待て待て。

「しかもパスタ食べながらいったんでしょ。しっかりしてるなあ」

わたしをほめる記者に、悪気がないことはわかっていた。しかし情報の切りとり方がやばいので、風評被害がやばい。わたしの視界で認識できる限りのオバチャンは、口元に手を当てて、わたしを凝視していた。いやちょっとは遠慮してくれ。

わたしは決して、パスタを食べながら、母親に死ねといった娘ではない。

 

母が倒れる。生存率20%の手術

わたしは、母と弟の3人家族だ。中学生のころに父が心筋梗塞で急逝した。4歳下の弟は、生まれつきダウン症で知的障害があった。

母と弟は性格がとても似ている。いつも穏やかで、優しい。わたしの役割は、そんなふたりを父に代わって、アホな言葉とバカな行動で、とにかく笑わせることだった。わたしたち家族はそうやって、明るく楽しくまわっていた。

わたしが高校1年生のとき、自宅で母が倒れた。

「ご家族の責任者は、どなたでしょうか」救急車で運ばれた先の医師がいった。

かけつけてくれた祖母は高齢で、わたし以上に呆然としていた。弟は、むずかしいコミュニケーションをとることができない。

母はすでに、意識不明だった。

「わたしです」反射的にいった。責任とは程遠いほど、震えた声だった。

「お母さまは極めて重症です。このまま手術をしても、手術中に亡くなる確率は80%を超えます」
「……手術をしなかったらどうなるんですか」
「数時間後にかならず亡くなります」

手術をするならば、同意書にサインを、と求められた。わたしは、迷ってしまった。

父と最期の会話が叶かなわなかったことを、わたしはずっと後悔していた。このまま手術室に入って死んでしまうくらいなら、一時的だったとしても、最期にゆっくり話す時間をつくってもらった方がよいのかもしれない。

そんなことを、思ってしまったのだ。

でも、結局、母の命をあきらめることなんてできなかった。わたしは祖母と一緒に、同意書へサインした。

本来なら、未成年のわたしではなく、判断は祖母にゆだねられるべきだったのだと思う。でも、この先、母とともに生きていく時間が長いのは、子どものわたしだ。わたしが後悔しないように決めた方がよいという医師の思いやりが、本当にありがたかった。

もし、祖母がひとりでサインしていたとしたら、わたしは祖母にすべてを背負わせることになっていたかもしれない。

6時間もの大手術のあと、母は一命をとりとめた。集中治療室で、眼を覚ました母と話した。安心やら疲労やらなんやらで、腰が抜けそうになった。

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「死んだ方がマシだった」?

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