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荒木村重の謀反に直面した織田信長は、宣教師と何を話していたのか? 『麒麟がくる』徹底分析

前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)

2021年01月30日 公開 2022年06月30日 更新

 

黒田官兵衛が囚えられ、長期戦となった有岡城攻め

有岡城攻めにおいて説得に参った使者が他にもいた。名を黒田孝高、有名な黒田官兵衛のことである。

官兵衛は秀吉の命で有岡城に使者として参る。しかしながら拘束され、監禁されてしまう。長きに渡る監禁生活で足が不自由となり、「参謀」としての手腕をここから発揮していくこととなる。

長期戦となった有岡城攻め。停滞していた戦況に苛立つ信長の厳しい物言いがドラマでは目立つ一方で、信長は陣昼食に「鯨肉」を下賜している。

当時、鯨肉というのは高級品で帝や貴族が食す定番高級料理であった。信長なりの兵達、現場で戦う者達への気遣いが見られた。

 

鞆(とも)幕府の演出と“木津川口の戦い”

足利義昭は、1576年に中国地方の大名・毛利輝元を頼り備後国へ。6年間の拠点として、将軍としての格を保ちながら各諸将に文を書き続けた。この備後での政を鞆幕府と現世で呼ぶ。

ドラマにおいては小さな役であったが重要人物、渡辺民部が登場した。毛利家家臣で、足利義昭の警護・接待役を任せられていた男である。光秀一行が鞆の浦に着陣した時に、窓口役として登場。その窓口と通じていたのがまさかの明智秀満。文通相手という明智家の参謀的な立場を描いた。

毛利家が上洛をする気がない、西国一円を統治できれば良いという説明が合った通り、毛利家は上洛の意思が弱かった。義昭自身は何とか毛利に動いてもらおうと「副将軍」格を与えている。

毛利軍は織田軍とも交戦はしており、木津川口の戦いと呼ばれる大合戦を二度、交えた。一度は毛利軍の水軍に軍配が上がったが、二度目は織田軍の新兵器、鉄鋼船にて織田に軍配が上がった。

ドラマではその事を九鬼水軍の台詞のみで案内した。激戦でもあったし、時間的にもドラマに収めるのは難儀であったと考える。日本初の鉄の船での戦い、もし描かれれば見応えがあったであろう。

本願寺と毛利の反信長軍は確かに強いが、それを退ける経済力と兵力に加え、確かな調略(交渉術)が織田軍にはあった。

 

「鯛一匹」釣りが示した織田信長と足利義昭の違い

足利義昭が鞆の浦で一日一匹鯛を釣る、という演出。非常に興味深い場面であった。鯛は鞆の浦の名産。「麒麟がくる」ではたびたび、ご当地名産品が登場している。

釣りという場面を描いたことも面白かったが釣り場面は以前にもあった。織田信長が海から竿を携え、ドラマ初登場した場面、信長は大量の魚を釣り上げていた。

経済的な富を成すことの重要性を演出していた以外に、この後半戦への伏線でもあった事に前田慶次やられ申した。海=人類の母であり生命の源。神聖な場所である。これは海を日本、天下と考え、海に生きる魚を大名、武将とも考えられる。

つまり、義昭は文と言う小さな餌で一日一匹(一人)しか捕まえる事ができぬ。それに比べ、信長は一度に大量の魚(武将)を捕まえる。

義昭は、鯛を皆で美味しく食う。雑多な魚ではなく、鯛という高級品は大事なものという価値観を示す。対して信長は、種類問わず売れれば良いし、値引きもする。己への徳しか考えぬ価値観。

信長にとっては、鯛であろうが何であろうが魚は魚。経済(己)を豊かにする道具と見なしていた。義昭は仏の人間でもあった一面を備後で取り戻し、皆で生きていこうと示す。されど、力が無い。「誰も一緒に釣りをしてくれない」という演出は孤立していることを示した。

そこに光秀が現れ、鯛をすぐ釣ってしまう。光秀が魚(人)を簡単に釣り上げ、それを見た義昭は微笑と同時に羨ましさも見せた。この光秀の他者との関係の取り方は、放送でも度々あった史実では叶わない多くの大名達との密会で表現されていた。

これらの演出をもともと考えていたと思うと、大河ドラマ制作陣営恐るべしである。

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