強力なリーダーシップが要求される自衛隊、それが公立高校で通用するのか?
一等海佐から大阪府立狭山高校校長へ転身した竹本三保はこう述べる。「組織を動かし、人を動かして任務にあたるという文化が、自衛隊と学校とでは大きく異なるとはいえ、最終的には高い志、夢や希望が持てるという、やりがいのある職場環境づくりが大切だということには変わりはない。
そのためには優れた見識のあるリーダーが必要であり、また育てることが急務かと考える。これは自衛隊や学校に限らず、企業や団体、地域、スポーツ界など、人と人が結びついて成り立っている、あらゆる世界についても同じことが言える」と。
当時まだ男社会だった自衛隊の中で、男尊女卑を肌身で感じながら"女性自衛官"として道を切り開いてきた想いとは。
※本稿は、竹本三保 著『国防と教育 ~自衛隊と教育現場のリーダーシップ~』(PHP研究所)から抜粋・編集したものです。
女性トイレすらない男社会との闘い
「竹本、辞めろよ!」
「そのお言葉は、指揮官としてのお言葉ですか?」
「人の親としてだ」
これは長女を出産したものの、当時は長時間預けられる保育園もなく、泣く泣く夫の実家に預けて仕事に勤しんでいた頃の上司とのやりとりです。その上司は私に毎日のように「辞めろ」と言い続けていました。
一等海尉に昇任した際は「おめでとう」ではなく、「よく昇任できたな」と言われ、冗談にしてもひどいことを言うなと思ったものでした。
また、別の上司からは、自衛艦隊司令部という作戦部隊の総本山に赴任して挨拶した時、「俺は男女の区別なく扱うから、しっかり仕事をしてくれ。だから、俺の目の黒いうちは、絶対子供を産ませないからな!」と言われ、それこそ目が点になったこともあります。
思い返してみましたら、昭和54(1979)年4月に海上自衛隊幹部候補生学校の第四期一般幹部候補生婦人課程に入校した女性はたった3名でした。
同期の男子からは、「女の子が何しに来たの?」と言われ、教官からも、「女は艦艇に乗れない」「昇任しても二等海佐までだ」と言われて、そこはまさに男の社会でした。
私のキャリアは、女性であるがゆえに多くの制約があるという宿命を受け止める覚悟から始まったのです。その宿命を受け止めていなければ、ばかばかしいと思ったり、トラブルを起こしたり、退職をするハメになっていたでしょう。
現在でも女性自衛官の比率は6〜7パーセント程度ですので、少数ではありますが、パワハラやセクハラは社会全体の問題として共有されていますので、私が入隊した40年前とは、男女性差における人権意識には雲泥の差があるのではないかと思います。
ですので、当然のことながらその当時は、旧態依然とした考え方がまかり通っていました。ましてや超がつくほどの男社会ですので、男女差別的な発言や行為、待遇は日常茶飯事といった有り様でした。
例えば「辞めろ!」と言った上司からは3年もの間最低の勤務評定をされていて、あるべきはずの特別昇給が9年もなかったということが、不審に思った別の上司の調べで後にわかりました。
ただ、かといって私は公私混同やセクハラ、パワハラをする上司にゴマをするつもりは毛頭なく、運が悪かったと考えるようにしています。
自衛官になった当初は女子トイレも遠い場所にしかなかったので、時間がもったいないからと、近くの男子トイレを使っていました。また、男子更衣室のない場所では、おじさんたちが私の目の前で着替えたりするのも平気でした。
艦艇に女は乗せない
ところが、男子トイレにさえ入れる女性自衛官なのに、艦艇には乗れなかったのです。
昭和55(1980)年3月、海上自衛隊幹部候補生学校を卒業し、三等海尉に任官すると、男性自衛官はおよそ5か月間にわたる遠洋練習航海に出て、実習、訓練を経て日本に帰って来るのですが、私たち女性(同期は私を入れて3名)はそれには参加できず、卒業と同時に新しい配置に就きました。
最初は横須賀教育隊での女子隊員の指導、次は幹部候補生学校で、幹部候補生の主として服務指導です。
自衛官として勤務するのなら、作戦に直接かかわれる分野でというのが入隊当初からの希望でしたが、当時、女性を配置できる作戦に直結した分野は『通信』・『情報』・『気象海洋』に限られており、市ヶ谷にある東京通信隊(現在の中央システム通信隊)に配置されました。
そうするうちに、艦艇向けの通信業務をしながら、「何とか艦艇に乗れへんものやろうか」という思いが湧き上がってきたのです。
そもそも幹部候補生学校でも女性には船乗りのカリキュラムが組まれておらず、遠洋練習航海にも行けません。
作戦分野で働くなら艦艇での勤務経験が必要不可欠だと感じていた私は、海上自衛隊の部内資格である『運航』と『機関』の資格だけでも取ろうと思い、通信教育の申請をしたのですが、認めてはもらえませんでした。
これも"女は乗せない戦艦(いくさぶね)"という絶対的な大前提があるといったことだったでしょうが、それはもう大相撲が"絶対に女を土俵に上げない"といったことに近く、その壁の厚さは相当なものがありました。
通信業務においても、これなら当然男性と同じ扱いになるかと思いきや、暗号の勉強をする課程を目前にして、「女性は辞めるから暗号をやらせない」と門戸を閉ざされました。
当時私は既婚者でしたので、それにはあたらないとは思いましたが、こんな調子で将来をどうすればよいのかと、途方に暮れた時期もありました。
平成4(1992)年、厚木の航空集団司令部に幕僚として勤務していた時、幕僚長の艦艇研修の際に随行することになりました。
迎えに来たヘリコプターに乗り、ヘリを搭載する2隻で行動する護衛艦に着艦するのですが、当時の天候が大荒れで、船乗りの用語で"波三、うねり六"ということでしたが、気分が悪くなるのはもちろん、艦橋から眺めると、もう一隻の護衛艦が頭上に見えたかと思うと、次には奈落の底に落ちて行くようで、木の葉ほどの大きさに見えたものです。
そうこうするうちに夜も更け、護衛艦に女性を乗せない時代に「艦艇に一泊する実績がつくれるかも」と、密かなたくらみを持っていたのですが、天候が何とか回復して「どうぞお帰り下さい」ということになりました。
やはり"女性を艦艇に泊めるわけにはいかない"といった理由のようです。