取材で語った「健常者」「障害者」の呼び方の違和感
テレビ局を出たあと、新聞社さんの取材を受けた。
3月21日の世界ダウン症の日が近づいていることもあって、弟のことについての取材だ。疲れてはいたけど、逆に疲れていると、自分の奥底にある素朴な言葉が出てくるので、それはそれで。いいこと言おうと、飾る手間が惜しいから。
「岸田さんにとって、ダウン症はどういう障害ですか?」
医療情報に通じて、丁寧に、正確に、話を聞いてくれる記者さんが言った。
わたしはとっさに、
「こういう説明がいいかわからないけど、障害と言われたとき、それは社会的には正しいんだけど、わたし的にはいつも違和感があるんです」
と答えた。
弟は障害者だ。ダウン症で、知的障害。
でも、彼の特性は、成長がとてもとても、ゆっくりであること。言葉をうまく話せず、コミュニケーションが難しいこと。環境の変化や曖昧な空気の理解が、苦手なこと。
それは障害なんだろうか。社会生活のなかで生きてる人には、わたしのように言葉がわかって、それなりに変化に順応できる人が、たまたま多いだけで。
言葉を使える人が多いから、しかたなく、使いづらい人たちも合わせてくれているだけで。
わたしたちがスムーズに生きていくために都合がいい人を「健常者」、都合が悪い人を「障害者」と呼ぶのは、なんかずっと、ぎこちない違和感がある。だからといって、障害者って言葉をやめましょうとまでは、思わないけど。
犬が褒められるときの気持ちにも似ている。
「かしこい犬」「いい犬」という褒め言葉があるけど、多くの場合それは「人が飼ううえで、都合のいい犬」にすぎない。自然界では、よく吠え、よく走り、人に懐かない犬の方が優れているはずだ。
いいか悪いかをジャッジするのは、いつだって、優れた人ではない。多数派の人たちだ。
弟はたぶん、言葉も文化も通じない、宇宙人がいる火星で暮らしているようなものだ。見様見真似で彼らの文化に合わせ、コミュニケーションを学び、交信しようとしている。
弟には、そういう力がきっとある。もの言わぬなにかを、じっと見つめて、ありそうもない感情や物語を、受け取る力が。
この地球に宇宙人がやって来て、共生するとなったら、ストレスフリーですぐに順応できるのはきっと、弟たちだ。それは人類にとっては、大変な戦力なのではないか。
「いまだ言葉やルールなんてものを使って遅れているわたしたちに、ダウン症の人たちはしかたなく合わせてくれてると思うんですよね。彼らにとっては、そんなものに頼らないと生きられないわたしたちの方が、障害者なのかも。誤解をはちゃめちゃに生むと思うので、これは、記事では伏せておいてほしいんですけど」
と言うと、記者さんはうなずきながら、笑ってくれた。少し救われた気がした。