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生き方

「人生は、小さくも強固な敵から身を守る闘い」事物の裏側をのぞきこむ韓国エッセイ

アン・ギュチョル(著), 桑畑優香(翻訳)

2022年01月06日 公開 2023年09月14日 更新

 

サビ

敵はたいてい自分よりも小さい。ほとんど目立たず、やかましい音を立てることもない。敵は、わたしたちを倒すにはわずかな攻撃で十分であり、むしろささやかであるほど効果的だと知っている。さりげなく密かにスタートする作戦の結果は致命的だ。

まったく予期せぬところから崩壊が始まり、気づいたときには取り返しがつかない状態になっている。たとえば、金属を腐食させるサビのように。

サビはまず、塗装が剥げたごく小さなキズや溶接部のヒビに発生する。攻撃対象のもっとも脆弱な地点にこぢんまりとした拠点を設け、ほんの少しずつ領土を広げ、ついに事物の内部に侵入する。サビは決して急がない。強く手ごわい相手でも、時間が自分の味方だと心得ているからだ。だが、いったん攻めはじめると、ひたすら前に突き進む。

わたしたちは腐食がかなり進行するまで、まったく気づかない。湿気から金属を守っていた塗装の防御膜が破られると、金属は外気に触れて猛烈に反応する。境界が崩れ、それぞれの内と外がひとつになる過程、塵に戻る過程、それが腐食だ。わたしたちが造る家や都市、橋やモニュメントは、すべて腐食の危険にさらされている。

足元で、頭のなかで音もなく進む崩壊と消滅への道程をできるだけ引き延ばすこと、すなわち事物の外部と内部をしっかりと分け、接しないようにするのがわたしたち芸術家の仕事だ。人生は、小さくも強固な敵から身を守る闘いである。

アン・ギュチョル(著), 桑畑 優香(翻訳)
「散策」30×20cm、紙に鉛筆、2017

 

コオロギはなかない

明け方に目が覚めて窓際に座っていたら、もの哀しいコオロギのなき声が聞こえてきた。こんな時間に悲壮感を漂わせ震えるコオロギを、気に留めるものはほとんどいない。「なく」と書いたが、他に合う言葉がないからそうしただけで、コロコロと音を立てるコオロギが、本当にないているのかはわからない。

コオロギだって、ないてばかりはいられない。生涯ずっとないていた親コオロギのあとを継ぎ、子コオロギの子どもとそのまた子まで、子子孫孫、ひたすらないて歳月を重ねるわけにはいかないだろう。「コオロギがなくのは、秋の訪れや世の中と別れる日が近づくのを憂いたり、伴侶を求めているからだ」と、人間は言う。

だがそれは、わたしたちの勝手な思い込みかもしれない。人生の終わりが近づくのを嘆くのは人間であり、自分と同じように虫も伴侶を見つけるために必死でなくと信じるのも人間なのだ。

もしかすると、コオロギには、これらとまったく異なる、わたしたちが想像すらできない理由があるのかもしれない。コオロギも知らない理由。喜びや悲しみという人間の感情とはまるで関係ない、コオロギの実存とかかわる根源的な事由があるのだろう。

外の世界に向けて必死にシグナルを送るコオロギは、隠れた住処を天敵に見つけられる危険におのずとさらされる。よって、命をかけるに値する、切実な理由があるはずだ。もしかすると、ある絶対的な存在との交信を試みているのだろうか。

だから、コオロギが「なく」と簡単に言うのはよろしくない。コオロギが出す音に「うら悲しい」とか「寂しい」とか、わたしたちの感情を手前勝手に当てはめてはいけないのだ。

この文章を書いている30分ほどのあいだ、コオロギは同じ音の高さとボリュームを保ちながら、休まず音を出しつづけている。それは「なく」という動作を超えている。自らの時間とエネルギ―すべてをひとつの行為に捧げる小さな生命体。その姿を「自分の運命を嘆いている」と、いとも簡単に決めつけてよいのだろうか。

コオロギは、悲しいわけでも、ないているわけでもない。悲しくてなきたいのは人間だ。わたしたちの代わりにコオロギがなく。秋が来たのだ。

アン・ギュチョル(著), 桑畑 優香(翻訳)
「幼いコオロギ」23×15cm、紙に鉛筆、2017

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