現在の社会にまで残る家制度の痕跡
こうして平等を謳う日本国憲法にもかかわらず、日本の家族や結婚をめぐる諸制度にはさまざまな不平等が残存した。戦後に改正された新しい制度のなかにも、まだら模様のように家制度の秩序と差別が残ることになった。
たとえば、家制度のもとでは、婚姻内の男女の子(婚内子)より、婚姻関係にない子(婚外子)を劣位に置く差別――戸籍における記載の区別が制度化されていた。この婚内子と婚外子の記載の区別が差別にあたるため違憲であると判断され、区別なく「長男」「長女」と表記されるように改正されたのは実に2004年である。なんと21世紀まで温存されていたのだ。
そして現在、いまだ別姓での結婚は許されていないし、芸能人が結婚するたびに週刊誌は「入籍」と書き立てる。1つずつ家制度の残滓を削り落としながら、じりじりと進んできたとはいえ、これがこの国の現在地なのである。
日本の家族の転換点と、ちぐはぐな私たち
このような民法における戸籍や結婚をめぐる制度は、国民に対し家族や結婚のあるべき姿を示すものである。一方で、そのあるべき姿に当てはまらない生き方をしようとする者は、実質的に不利益を被ることになる。
そうやって国民を「あるべき家族」「あるべき結婚」に誘導する機能を持つものである。しかし、われわれに示される「あるべき家族」「あるべき結婚」の形は、民法改正から70年以上を経てもなお、明治民法時代の家制度の影響を色濃く残している。
家制度においては、誰しも必ず1つの家に属し、1つの氏を持ち、1つの戸籍に登録される。家長である戸主を筆頭に家の序列のなかで身分が振り分けられ、その支配―服従関係のなかで「分相応」に生きることが美徳とされた。
そして戦後、平等と個人の尊厳を保障する憲法とそれに基づく民法改正により、家制度は廃止されたものの、個人ではなく家族を単位として国民を管理するシステムとして戸籍制度は温存された。
しかし、住民基本台帳やマイナンバーなど、個人単位で国民を把握し管理する新たな制度が導入されていくなか、家族単位で国民を管理する戸籍制度は、ますます本来の機能的な意義を失いつつある。
現在、選択的夫婦別姓の導入をめぐって戸籍制度の意義が議論になる際、機能的な面よりもむしろ、国民に対して規範や道徳を示す役割が強調されることが多い。日本の伝統的な家族の絆や家族の一体感などといわれることもあるが、その中身は家長の氏によって束ねられる家という家族像と、1人の個人ではなくその家の一員としての生き方の規範である。
1947年の民法改正から70年以上が過ぎ、人々の生き方は大きく変わった。晩婚化、少子化、共働き、国際結婚、別居婚、そして妻氏婚。人々の生き方が変われば、結婚、そして家族の形も大きく変わる。家制度の痕跡を残す戸籍制度や夫婦同氏制という旧来の制度が示す家族像と、現在のこの国の人々の現実との乖離が、日に日に大きくなっている。
そんな時代に結婚した僕らは、「戸籍筆頭者」の妻と、「世帯主」の僕が、たった2人の家族でお互い「家族の代表者」の席を分け合っている。
「……これでいいのかな?」。思わずお互いの顔を見合わせてしまうような、この奇妙なちぐはぐさこそ、まさにこの国の家族と制度をめぐる転換点に僕たちが立っていることの実感なのだろうと思う。