他人とつながるための孤独感、その意外な効用
詩人、ヘルマン・ヘッセは孤独についてこういっています。「人生とは孤独であることだ。誰もほかの人を知らない。みんな独りぼっちだ。自分一人で歩かねばならない」と。
実際、どんなに深く語りあっても、完璧に通じあうことなど不可能です。「わかりあえた気分」はあっても本当にわかりあえることはないのでしょう。どこまでいっても人間は独りぼっち。では、孤独感をどのように解釈するべきなのでしょうか。
一人でいると、孤独感から「さびしい」や「心細い」という感情に気がつくことがあります。
ホモ・サピエンスという動物は、とにかく「さびしがり屋」です。それは性格や個性を越えた本能的なものなのでしょう。古今東西、すべての人間は集団に所属して生きのびてきました。仲間と協力しないと生きられないぐらいひ弱な動物。それが人間です。
集団を追いだされて、完全な単独生活をすることになったとします。かつての仲間たちが囲んでいる炎を遠くのほうから一人、ポツンと眺めている。そんな心境を孤独感というのでしょう。さびしさ、心細さ、恐怖や不安を感じるのも自然なことです。
端的にいえば、孤独感はこのように警告してくれています。「さっさと仲間のところに戻りなさい、でないと死んでしまうから」と。
そのために謝罪するなり、譲歩するなり、不満を抑えるなり、行動の修正が求められます。相手の立場でものを考えるという能力も、孤独感や心細さという弱さを補った結果といえるでしょう。
たとえば、友達とケンカして「絶交だ」と思っていたのに、翌日になるとさびしくなったり、夫婦ゲンカをして「離婚だ」と叫んだのに、心細い気持ちになったり、「こんな会社、辞めてやる」と意気ごんでも、恐怖や不安がその決断をくつがえしたり。私たちが社会的に生活できているのは孤独感のおかげです。
そもそも人間関係というのはめんどうなものです。狩猟採集時代と違って、独りぼっちであっても生きられるようになった安全で便利な現代社会。人間関係から遠ざかって生きたくなるのもわかります。でもそれは精神的に危険な生き方です。
「なんとなく拠りどころがない感覚」や「どこか満たされない感覚」というのも、その正体が孤独感であることは少なくありません。
そう訴える方の生活を覗のぞくと、たいてい孤独感を感じるにふさわしい環境が見つかります。一人暮らしという意味ではなく、たとえ家族がいても、孤独感を覚えるような関係性ということです。
孤独感そのものは問題ではありません。それを人以外のモノで補うこと、それが本当の問題です。たとえば、甘いものや買いもの、お酒がやめられない、いわゆる依存症に共通するのは、「孤独感をモノで補償してしまうこと」です。
「人とつながるための動機づけ」、それが孤独感の本来の意味です。ところが孤独感はあっても「悪い気はしない」というときもあります。
精神分析理論の生みの親、フロイトの言葉を引用しましょう。「自分で進んで求めた孤独や他者からの分離は、人間関係から生ずる苦悩に対してもっとも手近な防御となるものである」。
要するに人間関係に疲れ果てたとき、「もう一人になりたい」というあの感じ。みずから望んだ孤独感というのはむしろ心地よいものです。
もうひとつ、孤独感が役に立つタイミングがあります。それは、考えを深めたいとき。
人と関わっていると、どうしても考え方が平均的になりがちです。たとえば、常識や流行を意識して生活していると、自分の価値観をないがしろにすることもあるでしょう。
みんながわかる、そんな平均的な考え方から創造的なアイデアが湧いてくることはありません。あなたがクリエイティブな仕事をしているなら、ときどき「どうせ誰もわかってくれないさ」と、思いっきり孤独感にひたる時間をあえて取るのもよいでしょう。
人によって、状況によって孤独感の意味は変わります。いずれにしても、「さびしい」というのはとても人間らしい感情であり、けっして否定する必要などありません。
その意味を自分で理解し、「どう行動をあらためるべきか」がわかれば、孤独感を恐れる必要もなくなります。