朝ドラ『エール』で話題になったオペラ歌手・三浦環...夫との破局が導いた“音楽人生”
2022年11月08日 公開 2024年12月16日 更新
環とプッチーニ。大正9年4月、イタリア・トッレデルラーゴにて。( 写真提供・元木房子、協力・豊田浩子)
明治~昭和期に国内外で活躍した伝説のプリマ・ドンナ、三浦環をご存じだろうか。代表作《歌劇 マダム・バタフライ》を国内外で2,000回公演し、名門メトロポリタン歌劇場に出演など、戦下の欧米で数々の舞台に立つ。
オペラの関係者の間ではその偉業が語り継がれてきたが、近年ではNHK朝の連続テレビ小説『エール』で、柴咲コウ演じる「双浦環」のモデルとして注目を集めたことも記憶に新しい。
「蝶々夫人」の作曲家のプッチーニ本人より「環こそ、真のマダム・バタフライ」と称されるほどの実力と華々しい経歴を持ちながらも、一方で「声」ひとつで生きていくと心に決めたために、最初の夫とはすれ違い、破局。ほどなく再婚したことも当時、スキャンダラスに報じられるなど、波乱万丈の人生を送ったという。
時は明治。開国を果たした日本は、博覧会ブームの真っ最中。激動の時代を生き、63歳でその生涯を終えるまで若々しい声を披露し続けた、奇跡のプリマ・ドンナ、三浦環。これまで未公開・未発表だった三浦環と、母・登波さんの直筆の手紙を通して、その素顔に迫る。
※本稿は、大石みちこ著『奇跡のプリマ・ドンナ オペラ歌手・三浦環の「声」を求めて』(KADOKAWA)より、一部を抜粋・編集。
手紙から読み解く三浦環の素顔
明治39年(1906)、夫の藤井は東京へ転勤したので、夫婦は、ともに暮らすことになった。
環が東京音楽学校へ入学した明治33年(1900)に内祝言を上げたものの、軍医である藤井の勤務地は天津、小倉という東京から遠く離れた土地ばかりだったので、同居するのはこれが初めてだった。
藤井も環も、ようやく家庭という場所を得て、これまで離れ離れに暮らしてきた空白を埋めると信じていた。藤井は物静かな性分であったし年下の環を可愛がり、平穏な家庭を築くだろうと、環の両親も親戚も想像していた。
東京音楽学校研究科へ進んだ環は、研究生として学ぶと同時に教員として授業を持ち、自宅にも生徒がレッスンを受けにやってきた。その数は4、50人だったという。
藤井はこの状況を嫌った。更に、藤井家はやむを得ない事情で、落ち着かぬ状況に見舞われる。明治40年(1907)、上野公園の周辺を会場とした東京勧業博覧会が3月20日から7月31日まで、4ヶ月余りにわたって催されたためである。
環は祖母・永田しゅんへ、登波は弟の政蔵へ、博覧会見物に静岡から上京するよう勧める手紙を書いている。3月22日、環から、祖母・永田しゅんへの手紙を引用する。
おひおひ御あたゝかに相成り候処、皆々様には御きげん いかゞにあらせられ候や、
扨さて東京はいよいよ 博覧会もはじまり候事にて、此上野辺はことに
にぎにぎしく、忍ばずの池のけしきなど御国のみなみな様に お目にかけ度く
そんぜられ候、御祖父母様には、御上京遊ばし候て、手ぜまには候へど、
私方に御滞在あそばされ、御見物なされてはいかゞに候や、(略)
又御いでの折には 何卒梅干を御みやげになし下され度候、かしこ
三月廿二日 環
おばあ様 まゐる
おぢさんやおばさんによろしく(書簡集8)
封筒の送り主は「東京下谷区谷中清水町二十 藤井環」とある。谷中清水町は旧町名で、現在の池之端三丁目、四丁目にあたる。藤井と環と登波の住まいは、東京勧業博覧会が催された上野公園と目と鼻の先だった。
その内容は東京市が発行した『勧業博覧会案内』に詳しい。明治維新後、日本政府は海外で催される博覧会へ出品を推奨した。そして、日本国内では内国勧業博覧会を開催した。第1回は明治10年(1877)、第2回は明治14年(1881)、第3回は国会開設と同年の明治23年(1890)、各回とも東京・上野公園にて催した。
第4回は明治24年(1891)、日清戦争の平和回復と桓武天皇奠都と祭を兼ね京都にて、第5回は明治36年(1903)、大阪にて催し、日本国内で行われる博覧会は出品者数及び出点数、来場者数、いずれも回を追うごとに増え続けた。
次回内国勧業博覧会は日露戦争により一時延期となっていたが、東京府が東京勧業博覧会として、上野公園とその周辺にて催すことに決まった。会場は帝国博物館周辺を第1会場、上野の不忍池周辺を第2会場、日本体育会の建物を第3会場とし、19部門の業種から出品がなされる。
飲食店も神田藪そば、洋食早川亭、日本麦酒会社等麦酒会社のビアホール他、多数出店される。高さ七十尺の観覧車、水泳場、遊具やアトラクションはまるで遊園地のようである。第5回内国博覧会では380万人が来場した。東京勧業博覧会も多くの人出が見込まれる。
環や登波が暮らす谷中周辺に、博覧会場が次々と姿を現した。環の家へレッスンを受けにやってくる生徒たちと環の間でも博覧会の話題は絶えなかったことだろう。
「静岡にも声をかけようか」環か登波か、どちらが言い出すともなく、登波の実家、永田家へ手紙を書いた。登波が弟・政蔵と母上へ送った手紙を引用する。
久々御無沙汰致しまして 誠に誠に申訳ハありません、(略)
東京の者も 皆無事ニ居りますから 憚なから御安心下され度、
さて今年は三月廿日ゟ七月三十一日迄東京ニ大はくらんかいがありますから、
上野ハ此せつハ大へんにぎやかになりましたから、是非ニ今度の博覧会御見物ニハ、
父上様も母上様も御同道ニて御出下さるよふ御待申上候、(略)
私も早速御しらせ申上度を毎日毎日思ひ居りますが、昨年のくれより藤井が清国より
帰京いたしておりますから、私が大へんいそが敷なりまして、今まて御手紙も
上ませんで御めん下さいまし、
只今おります家ハせまい家ですが、誠に見はらしのよい家てす、先ハ申上度事も
沢山ありますが取いそき右用のみ、其内御目ニ掛リ、万々御咄し申上へく候、
末なから皆々様へよろしくねがいあげ候、
くれぐれも御身大切ニ願上候、 かしこ
三月十二日
登波
御母上さま御まへに(書簡集70)
環の手紙も登波の手紙も、隣近所で始まる大イベント「東京勧業博覧会」に心弾む様子が文面に表れている。環は、親戚の上京が決まらぬうちから「御いでの折には、何卒梅干しを御みやげになし下され度候」と、好物の梅干しをリクエストしている。
この一通に限らず、環と登波の手紙には、「静岡・小笠郡六郷村」の永田家の梅干しを乞う文面がしばしば表れる。環が祖母・しゅんへ送った手紙をもう一通、引用する。ここにも梅干しの話題が登場する。母・登波についても書かれている。
(略)どうぞきっと御上京遊ばして下さい、私の家は小さな小さなおかしい様な
家なのですけれど、それはそれはたのしいのよ、此様子をおはあさんに
御目にかけ度いのよ、私は丸でおかあさんに甘へて居りますのよ、(略)
御上京の時にはどうぞ梅干をお買ひ遊ばして、少しおもち下さいませんか、
私梅干が大好きなので毎日たべて居りますが東京では三つ一銭で其くせまづいまづい
ので御座いますからどうぞ御ねがひ申します、
又御上京の日と時がわかりませば 新橋までおでむかひに行きますよ、お帰国の時の
旅費や梅干のお代は私の方で御目にかゝつてからさし上ますからね、(略)
母上様がおそばに行って あたゝかなふとんを作ってあけますから、およろこび
下さいませ、三月の末には私は大坂へ音楽会に行きますから、
其帰りにおちい様の処へ行きたいと思つてたのしみにして居りますよ、(略)
母上様はほんとにいつも健康で私をかわいがつて下さいますから、私は仕合せ
で御座います、私はおかあさんが世界中で一番たよりなのですから、おかあさんが
いつまでもいつまでも健康で居て下さる事ばかりいのつて居ります、(略)
はやく御全快なさいます様に神様にいのつて居ります、 さよなら
二月廿五日 たまき
おぢいさま
まゐらす (略) (書簡集13)
環は登波のたったひとりの娘である。少女時代に起こった両親の不仲と離縁という出来事により負った心の傷を環はずっと抱えている。登波と環が離れ離れになる事への不安、恐れが何かの拍子に湧き起こる。消えることのない不安と恐れを打ち消すかのように母への想いを言葉にする。
藤井は清から帰国したというのに、夫を放ってレッスンに忙しく、博覧会に浮足立つ環に納得がいかない。それに加えて、環は母を慕う。時には執着を感じるほどに慕う。
けれどもある時、凜とした大人の女性を彷彿とさせる手紙を書く。環から叔父・永田政蔵と祖母へ宛てた手紙である。
時候不順にて御暑さも中々にさりやらず候折から、御祖父母様はじめ御一同様
御健かに 渡らせられ候よし、何よりも嬉しう存じ上候、扨此度は(略)
おいしき梅干 山々御めぐみ下され、有難く厚く御礼申上候、朝食事の時、
梅干をいたヾく事は何よりの心地よさにて、嬉しう嬉しう存じ上候、(略)
皆様御身 御大切におはすやういのり上まゐらせ候、かしこ(書簡集76)
「朝食事の時、梅干をいたゞく事は何よりの心地よさにて、嬉しう嬉しう存じ上候」の下りからは、酸っぱい梅干しの香りが伝わり、環の活き活きとした暮らしぶりがうかがえる。