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朝ドラ『エール』で話題になったオペラ歌手・三浦環...夫との破局が導いた“音楽人生”

大石みちこ(脚本家)

2022年11月08日 公開

 

音楽への道と引き換えに失ったもの

9月、藤井と環と登波は麴町区三番町へ引っ越した。

環は授業、レッスンの他、東京音楽学校の春季演奏会、秋季演奏会に出演している。他にも、大阪中之島公会堂に於いて、婦人矯風会慈善音楽会に出演、愛知県、兵庫県でも公演するなど家を空けることも増えていく。東京音楽学校で予定されていた《歌劇 オルフォイス》再演が中止となり、その対応にも追われた。

藤井は環との時間を大切にしたい。けれども環は音楽の仕事が忙しく、家事もおろそかになっていった。ある日、藤井は環に告げた。

「仙台へ転任することに決まったよ」

環は一瞬心が晴れた。しばらくは夫へ気兼ねすることなく仕事ができる。ところが藤井は仙台での2人の暮らしを思い描いていた。

仙台へ同行するということは、環にとって、音楽に関わること全てを、演奏家としての活動も、教育者としての地位も、これまで演奏会を重ねて得た人気も手放すことになる。

藤井と結婚したのは、東京音楽学校への進学を父に許してもらうためであった。音楽で身を立て母を幸せにしたい。

「私、東京で音楽を続けます」

藤井は妻が身の回りの世話をしてくれることを望んでいた。

「仕事を辞めることができないのであれば別れよう」

と、藤井は言った。離婚までは考えが及ばなかった環は愕然とした。2人の愛情に変わりはなかったが別れなければならない、というのは切なく、環は泣いた。

けれども、音楽を捨てるか続けるかと問われれば、答えは明白だった。藤井は仙台へ転勤し、環と母・登波は麴町区中六番町の親戚の家へ、その後、麴町区富士見町へ引っ越した。登波は引越の経緯について、母へ手紙を送った。

此頃東京ニテ見る物ハ、先三越売出し、上野たんボ坂のきく人形もありまして、
殊によい時てすから、御出京願ます、
其後ハ思ひ外御無沙汰に申居、何とも申わけなく御ゆるし下され度、(略) 扨て
当春ハ大き之御心配かけ候処、此頃ハ表書きの処へ家ヲかりまして、
(略)くらし居候間、何卒御安心下され度、それから其後久敷 佐一郎宅ニやつかいに
なつてをりましたか、何ふん環のお客様が沢山参ります故、あまり後藤ニも気のどく
と ぞんじ、家ヲさがしましたら、つい後藤の近所ニテ平家にて八畳二間、六畳二間、
三畳二間、都合六間ノ誠に都合よき家が有ましたから、七月よりかりて此家に毎日お
けいこをいたしてをります、
誠にしずかなよい家て御座います(略) くれぐれも御出京之程 御まち申をり候、
御出京のせつハ梅ぼしを御願ひ申ます、東京品ハ誠にわるくてためてすから、
東京ハ此せつハ誠によい時せつで御座いますから、是非ニ御いで下さいませ、(略)
東京ニテ とわ
 国元ニテ 御母上さまへ
            御まへに(書簡集63)

送り主は「東京麴町区富士見町一ノ三十 柴田とわ」。藤井環から柴田環へ、旧姓へ戻った環。登波も自分の旧姓の永田ではなく「柴田とわ」を名乗っている。環が部屋を借り、そこへ同居する便宜上の選択であろうが、登波は離婚した夫の名を名乗ることになる。環に寄り添う登波の切実な心境を察する。

「当春ハ大き之御心配かけ候処、」とあるのは藤井との別居のことだろう。「其後久敷 佐一郎宅ニやつかいになつてをりましたか」とあるが、佐一郎は登波の弟で、後藤みねと結婚して、婿養子に入った。

後藤佐一郎は質業で財を成し、東京麴町区中六番町に広大な敷地を所有していた。後に環はその一角に住むことになる。この手紙で登波は、遠く離れた静岡の母や弟・政蔵に無事でいることを伝え、安心してもらうことに終始している。みずからの離婚、更に娘の離婚とあって、さぞ落胆したことだろう。

しかし、「よき家が有ましたから、(略)毎日おけいこをいたしてをります」と、環の健在を明らかにする、登波の気丈な姿が浮かび上がる文面である。

一方、環が祖父と叔父へ同時に送った手紙はそれぞれに趣が違う。

おぢいさん 病気しませんか、私はまたひまが出来たら おそばにまゐりますよ、
からだを大事になさいましね、おばあさんを私のところへ来させて下さいな、
そうすればみなさんにたくさんおみやげをあげますからたのしみにおまちなさいな、
(略) おば様にもよろしく、    さよなら
        九月三日             環

そのごは御ぶさたに打すぎ、何とも申わけ之なく候、みなみな様には御変りもおはし
まさず候や、こなた事は、母上はじめ、私もいと健かに之あり候へは、
何卒御安心下され度候、さて私方も さびしう候間、何卒おばあ様御都合あそばし
御上京下され候て、しばらく私方ニ御いで下され度、母と二人にて御ねがひ申上候、
私方は後藤の叔父様のところより二町ばかりにて候まゝ、何卒おばあ様御上京の様、  
叔父様より御ねかひ下され度、
待ち上まゐらせ候、          かしこ 環
政蔵叔父様(書簡集10)

祖父への手紙は、ひらがなと平易な言葉で書かれている。内容はお年寄りを気遣い、子供へ言葉をかけるような優しさに満ちている。

後半の叔父・政蔵への手紙は候文で丁寧な大人の配慮がうかがえる。同時に文面には「私方もさびしう候」と、本音も見え隠れし、「母と二人にて御ねがひ申上候」という下りには、2人が寄り添う姿が浮かぶ。

けれども心細い状況の中でも環は「母上はじめ、私もいと健かに之あり候へは、何卒御安心下され度候」と、書いている。気丈夫な登波と、その気質を受け継いだ環の結びつきは益々強くなっていく。

 

悲しき別れの後に届いた一通の手紙

明治42年(1909)3月15日、環は藤井善一と協議離婚した。新聞、雑誌はこぞって藤井環離婚、の記事を載せた。2人の事情をおもんぱかる記事など一つもなかった。環は呆れると同時に不快な気分だった。音楽の仕事を続けるための選択だったのだ。

これからは夫に遠慮する必要もない、母と2人、麴町の家で暮らし仕事に専念しよう。そう決心したというのに水を差す出来事が起こる。様々な人から結婚を申し込む手紙が届くようになる。そして人づてに縁談も舞い込む。

ある日、環は一通の手紙を手にした。封筒を裏返すと、送り主は遠縁の三浦政太郎だった。子供の頃から家と家の行き来もある顔見知りだった。

その頃、環に届く手紙の多くは全く知らない人が書いたものだった。政太郎の名を見て、あの無口な政太郎が手紙を送ってくるとは何ごとだろうと即座に封を切った。

遺稿の中で環は政太郎の手紙と当時の青年の恋心について率直に述べている。

非常に内気な性質でどっちかというと陰気な方で、おまけに無口なのです。(遺稿)

環が藤井と結婚した時、政太郎の落胆は深かった。政太郎の失恋に家族は気づいていなかったので陰いん鬱うつとした政太郎の落ち込みようは青年のメランコリーだろうと決め込んでいた。一高の学生の間では厭世思想が流行っていた。環は華厳の滝へ投身自殺した藤村操をたとえにしながら語っている。

藤村操のように華厳の滝に飛び込まないうちに、私が藤井と別れたので(略)手紙をよこしたのでした。その手紙がまた物凄いのです。(略)(藤井さんとの結婚を知った時は)底しれぬ泥ぬまの中にひきずりこまれたようだとか、薄気味の悪い厭世的な文句が書き連ねてあるのです。(遺稿)

環は政太郎が自分のことを想っているとは知らなかった。登波が親戚から聞いたところによると、政太郎は悲観的にものを考えるという。環は当たり障りのない返事を書いた。

政太郎は東京帝国大学医科卒業後、同大学附属医院三浦謹之内科で副手を務めており、東京在住だったので、手紙をきっかけに六番町の環の家へ再び遊びにやって来るようになった。政太郎は環と結婚したいと、口にするようになったが、離婚したばかりの環は再婚の事など考えられなかった。

そして、間もないある日、別れた藤井の口から結婚することになった、と環は知らされた。藤井は仙台から上京した折に環を夕食に誘った。富士見町のお茶屋だった。

藤井の話を聞いた環は安堵し、元の夫へ婚約祝いの言葉もすらすらと述べることができた。すると一気に気持ちがほぐれて藤井との新婚当時の思い出話が尽きないのだった。こんなに話したのは何年ぶりだろうと言うほどに。

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スキャンダルを乗り越え、紡いだ“愛と夢”

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