周囲から「優しい人」だと評価されていても、なんだかやさしい言葉や態度の裏に戦略的な意図が見え隠れしてしまい疑ってしまう…そんな経験はないだろうか。
心理学博士の榎本博明氏は、「やさしくて、いい人」の中には、自分がよく思われたいだけで、相手に対してやさしい思いをもっているわけではないこともある、と指摘します。
本物のやさしさを見失わず、また偽物のやさしさに騙されないようにするには、どのような視点が必要なのだろうか。
※本稿は、榎本博明著『「やさしさ」過剰社会 人を傷つけてはいけないのか』(PHP新書)から一部を抜粋・編集したものです
「戦略としてのやさしさ」に敏感になること
やさしさに疑わしさが漂うことがある。周囲の人は、その人物のことを「やさしい人」だと言うが、ほんとうにそうだろうかと思うことがある。そこには、やさしい言葉や態度に込められた戦略的な意図が見え隠れするのだ。
そこで心に留めておきたいのが、「自己呈示としてのやさしさ」というものがあるということだ。
自己呈示というのは、「このように見られたい」というイメージを意識して、自分の見せ方を調整することである。印象操作とも言う。
具体的には、向社会的行動を積極的に示すことで、やさしい人物という印象を演出する。向社会的行動とは、他者のためになる行動のことである。
相手が喜びそうな反応をする習慣のある人は、何かにつけて相手のやり方をほめたり、アイデアに感嘆したりして、人の気持ちをくすぐり、いい気持ちにさせるようなことを言う。それによって自分が好意的な印象をもたれることがわかっているからだ。
そのような人は、たいていの場合、「やさしくて、いい人」とみなされがちである。だが、実際は、自分がよく思われたいだけで、相手に対してやさしい思いをもっているわけではないことが多い。
自己呈示としてのやさしさを示しているだけで、いわば戦略としてやさしさを見せているに過ぎない。
一方で、せっかく自分が友人としてつき合っているからには、耳にやさしいことを言っておだてるのではなく、何か気づきを得るきっかけになるようなことを言ってやりたいと思って、あえて厳しいことを言う人もいる。
このようなタイプは、ほんとうに相手のためを思って動いているにもかかわらず、「きつくて、やさしくない人」と誤解されたりする。
とにかく他人を「ほめなさい」「ほめればうまくいく」といったメッセージが溢れる戦略社会である。
相手によい印象を与え、思い通りに動かすには、とにかく人よりたくさんほめるのが効果的。人はだれでもほめられると気持ちが舞い上がるし、みんな自己愛が強いから、わざとらしいくらいほめても大丈夫。そうしたえげつないハウツーを説く戦略本が広く読まれる時代である。
そんな時代ゆえに、「ほんとうのやさしさ」より、「見せかけのやさしさ」に引っかかる人があまりに多い。
身近にいる「ほんとうにやさしい人」のやさしさに気づかず敬遠し、ときに「きつくて鬱陶しい人」として攻撃的な気持ちを向けたりする。
そして、「見せかけのやさしさ」を戦略的に売り物にしている人のことを「やさしくていい人」と思い込み、その術中にはまっていく。そうした事例がそこら中に見られる気がする。
言葉にしない“やさしさ”
欧米と比べて、日本では、「言葉に出さないやさしさ」というものも伝統的に大切にされてきた。
察するというのは日本独自のコミュニケーションの仕方だと言われるが、何でも言葉に出せばいいというものではない、といった感覚が日本文化には根づいている。
何か悩んでいそうな相手、落ち込んでいる様子の相手に、「どうした? 元気ないけど、何かあったの?」と声をかけるのもやさしさではあるが、人には言いにくいこともあるかもしれない、今は人に話をするような気分ではないかもしれないなどと考えて、あえて何も言わず、そっとしておく、というやさしさもある。
また、同情されることで自尊心が傷つく場合もある。相手に負担をかけることを非常に心苦しく思う人もいる。そのような相手の場合は、同情の気持ちが湧いても、そっと見守る方がいい。そんなやさしさもあるだろう。
そっと見守るやさしさは、見かけ上は人に無関心な態度と区別がつきにくいため、ともすると見逃されがちだが、誠実な人ほど、そのようなやさしさをもっていることが多い。
照れやわざとらしくないかといった懸念から、やさしい言葉をかけられないという人もいる。控え目な人は、わざとらしさを嫌う。
そのため、本心では何も心配していないのに、わざとらしくやさしい言葉をかける人の方が、周囲からやさしいとみなされたりする。
とても繊細なやさしい気持ちをもつ人の場合、相手の気持ちを気遣うあまり、声をかけそびれるということもある。何か声をかけようとしても、思い浮かぶどの言葉も薄っぺらいような気がする。
「大丈夫?」と言いそうになると、大丈夫じゃなさそうなのに、こんな言葉は不適切だと感じる。「なんか、大変そうだね」と声をかけようとした瞬間に、そんな言い方は突き放した感じがするような気がしてくる。そうした思いが頭の中を駆けめぐるため、声をかけるタイミングを逸する。
結局、言葉みたいな表層的なものではすくい取れない深い思いが向こうにもあるだろうし、こっち側のやさしい思いもなかなか言葉になりにくい。
こうしてみると、やさしさは、行動だけでなく、相手を思いやる気持ちとしてとらえる必要があるだろう。安易に言葉をかけるより、そっとしておく方が相手のためと思い、あえて声をかけずにおくのもやさしさに違いない。
そのような控え目なやさしさは、戦略的な見せかけのやさしさを売り物にする人物が目立つ今日、とても貴重なものと言ってよいだろう。