周囲の同情を求め、思ったようなリアクションを得られないと「誰も私のことを分かってくれない」と嘆く人がいます。いつまでも自己憐憫にふけってしまうのは、一体何故なのでしょうか。早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏が解説します。
※本稿は、加藤諦三著『悩まずにはいられない人』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
誰も私のことなんか分かってくれない!
「できるわけないわよ」と「どうすることもできないの」の2つの文句は、自己憐憫の確かな兆候だとジョージ・ウェインバーグはいう(註1)。
自己憐憫する人の問題は、人々の同情を得ようとがんばるが、その期待は裏切られることである。
大人の世界で、「私はこんなにつらい、私にはどうすることもできない」と言い続けている人に、そんなに同情する人はいない。そこで自己憐憫する人の期待はつねに裏切られる。
「認めてくれるだろう」と期待してしたことが、逆に無視された時には深く傷つく。その結果、憎しみの感情が湧いてくる。その憎しみの感情の間接的表現として、さらに自分のみじめさの誇示が始まる。そうする度に憎しみの感情は強化される。
ジョージ・ウェインバーグ自身がいうように、自分の状況について嘆き悲しんでいる人から、やがて人々の同情心は離れていく。自己憐憫は「ほかの人間の迷惑になるのです(註2)」。
これは自己憐憫する人にはつらいことである。褒められることを期待してしたことがけなされた時には、不愉快な気持ちから抜けられない。
同じように、同情を期待して自己憐憫したところが相手から避けられた。そういう時には落ち込みが深刻である。
しかし残念ながら、自己憐憫をされた相手にとっては、自己憐憫は迷惑なことである。そうなれば、自己憐憫する人は例のフレーズ「誰も私のことを分かってくれない」になる。
ジョージ・ウェインバーグは「誰も私の苦しみなんか分かりゃしない」は世界でもっとも繰り返されている言葉の1つだと述べている(註3)。
自己憐憫の第二の特徴は、つねに「行き止まりである」ということである(註4)。いつまでも自分の哀れさを言うだけで、これから先「自分はどうしようか」ということを言わない。
「それは、自分はどうしようもないのだ、という考えに基づいております。そしてその考え方を強化し続けています。受動的なのです。すべてがあなたに対してなされたのであり、あなた自身を救い出せる方法はないのです。
こんなの決して真実ではないし、立ち直れるのに役にも立ちません。あなたは自分をどうかできるのです。ただ自分を哀れむのをやめさえすればの話しです(註5)」。
このとおりである。しかし「自分を哀れむのをやめること」はかなり難しい。なぜなら「自分を哀れむこと」の背後には攻撃性や敵意があるからである。自分が自分であることを否定した人々に対する憎しみを無意識に追いやることができても、消すことは難しい。
「もし自分自身であり得ないのなら悪魔になったほうがましだ(註6)」というシーベリーの言葉は意味深い。
自己憐憫する人は、悪魔にならないで自己憐憫しているのである。自分が自分であることを否定した人に対する、攻撃性や敵意を解消することはかなり難しい。
しかしそれを意識化し、乗り越える以外に、人生が拓ける道はない。自己憐憫する人は、一定期間、自分のみじめさを語らないことである。すると禁断症状が現れる。
どうしてもみじめさを誇示したくなった時に、自分がどのくらい人からの同情を必要としているかを確認することである。また、どのくらい人を憎んでいるかを確認することである。
このマイナスの感情は自分についての大切な情報であり、これをもとに自分がどんな人間であるかを理解することができる。そう理解できるから努力の方向性が見えてくる。
自分は愛されて育っていないから、安心感がないと理解できる。幼児的欲求の満足がないまま幼児的欲求放棄を強いられた自分の心の空洞が見えてくる。
自分は母親という言葉は知っているが、母なるものを持った母親を体験していないということも見えてくる。自分には母親という名前の赤の他人がいたということが理解されてくる。
(註1)George Weinberg, Self Creation, St. Martin's, Press Co., New York, 1978, 加藤諦三訳『自己創造の原則』三笠書房, 1978, p.250
(註2)前掲書, p.251
(註3)前掲書, p.251
(註4)前掲書, p.251
(註5)前掲書, p.251-252
(註6)David Seabury, How to Worry Successfully, Blue Ribbon Books: New York, 1936, 加藤諦三訳『心の悩みがとれる』三笠書房, 1983, p.151
もっともっと真剣に同情してくれないといや
「同情を得ようとするたびに、彼は同情への欲求を強化していきます(註7)」。
「そんなにつらかったの」という言葉をもっと聞きたくなる。さらに、もっと心の底から言ってもらわないと不満になる。
しかし大人の世界で、些細なことでいちいちそんなに心の底から同情してくれる人はいない。自己憐憫は終局的には不満と敵意に終わる。そして例の「誰も私のことを分かってくれない」という言葉になる。
そしてその言葉は本当なのである。誰もその人の苦しみにその人が期待するほど理解を示さない。
自己憐憫する人は、他人に「もっと」真剣に同情してもらいたいのである。そして一切の社会的責任から解放されたい。心理的に生まれたままの幼児になって無責任が許されて、その上で立派な社会人として評価されたい。
「私の気持ちを誰も分かってくれない」と言う人は、自分だけは生まれたままの赤ん坊でいる特別の権利があると思っている。その他人にはない自分だけの特別の権利を要求しているのが自己憐憫なのである。
「彼は同情以外に何も求めようと努めないことで、人生をむだにしているのです(註8)」とジョージ・ウェインバーグはいう。
なぜ同情以外に何も求めようと努めないのか? それはそれ以上に彼が必要としているものはないからである。同情だけが彼に満足を与えるからである。つらい気持ちを汲み取ってもらうことだけが心の満足なのである。
確かに他人から見れば、せっかくの人生をなぜそこまでむだにするかと不思議に思う。送ろうと思えば送れる、すばらしい人生が彼の目の前にある。
客観的にみれば、輝ける人生を送る障害は何もない。障害は本人の心の中にある退行願望だけである。それとそれに付随している攻撃性である。
そこにすばらしい人生がある。手に入れようとすれば、いま述べたように、客観的にはなんの障害もない。しかしそうした人生を送る気力がない。気が進まない。おいしい料理がそこにあっても、食欲がなければ食べる気がしない。
おそらく自己憐憫している人は、退行願望が満たされて憎しみが解消されて、はじめて前向きになれるのだろう。したがって、自分の退行願望や幼児的願望を意識することは大切である。
(註7)David Seabury, How to Worry Successfully, Blue Ribbon Books: New York, 1936, 加藤諦三訳『心の悩みがとれる』三笠書房, 1983, p.254
(註8)George Weinberg, Self Creation, St. Martin's Press Co., New York, 1978, 加藤諦三訳『自己創造の原則』三笠書房, 1978, p.254
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。