親のせいにしなくなったとき自分の「真の人生」が始まる
私たちは、時に過酷な運命を与えられる。「親ガチャに外れた」、「毒親を持った」──、それも過酷な運命の1つだと思う。そして、そうした過酷な運命は、自ら望んだものではなく、いわば強制的に与えられたものである。
私は「親ガチャ」や「毒親」という言葉は、「親であっても正しいわけではない」、「子どもを愛しても守っても導いてもくれない親もいる」ということの意識化を示す言葉として評価している。
こうした言葉によって、多くの人が自分が悩んできたことに名前を付けることができて救われただろうし、世の中に「親に恵まれない人の現実がある」ということを広く知らせる意義もあったと思う。
しかし、それが「人生がうまくいかないのは親ガチャに外れたせい」、「毒親に育てられたから、こうなった」というような形で、親がすべての原因や理由になるとき、そこには危険もあると感じている。
確かに、親は選ぶことができない。けれども、生きるのが苦しいのが全部親のせいならば、それはまだ親に自分の人生を支配されているということに他ならない。
親から愛ではなく苦しみを与えられたのは悲しいことであるが、それを自分のこととして引き受けていかなければ、自分の人生を真に生きることはできないのではないだろうか。
誤解しないでいただきたいのだが、「自分のこととして引き受ける」というのは、「自分が悪い」、「自分に原因がある」と思うこととは違う。
自分の人生に起こった理不尽な出来事を自分や誰かのせいにして終わりにしてしまうのではなく、自分の人生に起きたことにどんな意味があるのか問い続け、自分なりの答えを見出していくということである。
そうすることによって、自分が人生の中で取り組まざるを得ない心理的課題も見えてくるだろうし、課題と取り組む中で、人生における理不尽な苦しみや悲しみも、ちょっとずつ成仏していくことができるのではないだろうか。