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「議論を好むフランス人」と「自己主張できない日本人」 地政学的条件が生んだ違い

中野信子(脳科学者)

2024年09月04日 公開 2024年12月16日 更新

集団の調和を重んじる日本社会では、議論は対立を招き、秩序を乱すものと捉えられがちです。対して、フランスでは議論はむしろコミュニケーションの主要な基盤だと、脳科学者の中野信子さんは語ります。その違いはなぜ生まれたのでしょうか? 書籍『新版 人は、なぜ他人を許せないのか?』より解説します。

※本稿は、中野信子著『新版 人は、なぜ他人を許せないのか?』(アスコム)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

議論ができない日本人

集団の意思に従いがちな日本では基本的に議論が行われるケースが少なく、多くの人が議論下手、あるいは議論を避けるようになっていきます。

私はフランスで生活をしていましたが、かの国は日本とは正反対、議論はむしろコミュニケーションの主要な基盤とすら思えてきます。日本人から見れば人と人が顔を合わせれば、毎日議論ばかりしている国に見えるかもしれません。

私もそのなかにいたわけですが、日本に戻ってきて考えるのは、日本で行われている議論のほとんどが、フランスで私が見てきた議論とは異質のものだということです。

あるテーマAに対して、Xという主張、Yという主張を持っている人がいるとします。フランスであれば、一方が「Aについて話をしたい。私はXだと考える。その理由はかくかくしかじかだが、あなたはどうか?」と語り始めたら、もう一方は、「私はあなたと考え方が違う。私はYだと考える。その意味するところはかくかくしかじかで......」と応じます。

そこからお互いが、より議論を掘り下げていき、この部分はどう考えるか? とか、この部分は賛成だがこの部分は理由になっていないのではないか? あるいはこの部分まではお互い共有できる、などといった具合に発展していきます。人と人が会うたび、大きなテーマが世間の話題になるたびに毎日こんな調子で、はたから見ていると、みんなとても楽しそうに意見を交わしていました。

私は結局日本人だからなのか、正直「また議論か、もうおなかいっぱいだ」と感じることも多かったのですが、ひとたび「君はどう思う?」とこちらに振られたら、反応しないわけにはいかないのです。

その後日本に戻ってきて、「君はどう思う?」からはようやく解放されたのですが、日本人同士の議論を見ていると、フランスとは決定的な違いがあることに気づきました。

同じように、あるテーマAに対して、Xという主張、Yという主張を持っている人がいるとすると、だいたいこんな具合に展開していくのです。

「Aについて、あなたはYだと主張しているが、その考え方はいかがなものか?」
「いやいや、Xなどと言い張っているあなたこそ失礼千万だ!」
「なんだその態度は! 生意気な。人の顔をつぶすのか?」
「大した勉強もしていないくせに、何を熱くなっているの。どちらもみっともないよ」

これもこれで、はたから見ている限りでは面白そうですが、日本の議論はなんだか様式美的で、深掘りせずにステートメント(意見)を争わせ、最終的には本質の探究ではなく、喧嘩コントのような戦いになってしまうのです。もっとも、これをプロレス遊びのように捉えるのであればエンターテインメントとして成立するのかもしれませんが、正直議論と呼べるのか、私には疑問です。

そんなことを考えていたら、あるフランス人にフランス語では、「議論する(discuter)」という動詞が「人」を目的語に取る(~と議論する)のに対して、「論破する(réfuter)」という動詞は、人を目的語に取らないんだよ、と言われました。

これはつまり、議論は人とするものだけれど、言い負かすのはあくまで話している内容、論旨であって、上司を論破する、夫を論破する、相手を論破する、という使い方はしないということです。

とはいえ、別のフランス人には、いや、そういう使い方もあるし、時には議論でめちゃくちゃにやられて仲が悪くなることもあるよ、と言われたりもしたのですが......。まあ、多様性があるということになるのでしょうか(私が噓をつかれているのでなければ)。

一方、日本では主張と人格とが分離されず、容易に人格攻撃へとつながります。これは、ある意味日本を象徴するような特徴かもしれません。

 

自己主張が苦手な人が増える地政学的条件

議論をできるだけ避けようとするのは、日本人の目立つ特徴です。それでは、他のアジア諸国はどうでしょうか。中国人も韓国人もインド人も、一般的には日本人よりも発言することを好むようですし、日本人の基準からすると、自己主張が強いと感じられる場合が多いのではないでしょうか。

これは、一体なぜなのでしょうか。

一つには、地政学的な面での影響が大きいと考えることができます。多くの国は、他国と国境を接し、常に外敵との争いや好戦的な異民族の侵入や支配などをリスクとして抱えていたのに対し、日本は国内(集団内)における支配権争いが、主たる対人関係上の関心事でした。急に異民族がやってきて支配されることや、それらの人々に財産を身ぐるみ奪われたり、殺されたりすることは、ほとんどありませんでした。

社会の流動性は低く、集団外との交流も少ない状態で集団生活が続いていきます。リスクをより減らすために取られた策としては「鎖国」が最も知られた例でしょう。地域や血縁集団などにおける信頼関係はより強まり、そして誰もがどこかの集団に属していることが当たり前になって、そのことこそが身の安全を図るための重要な証明となります。

何せ、ただでさえリソースがギリギリの国であったのに、災害まで頻発しますから、集団で効率よく、みんなで助け合っていくことが、その環境で生き抜くために最も重要だったのです。

そして、そんな状況にもかかわらず集団に迷惑をかけたり、ルールに背く人間がもし現れたら、その人を集団に置いておくことは集団の人々の不利益に直結したのです。

現代の都市部に住んでいると、こうした考え方は今ではもう消滅しているのではないかと考えがちですが、地域によってはいまだに、回覧板を回さないとか、組合に加入させない、ごみを捨てさせてもらえないなどという、昔ながらの村八分が存在するというニュースが時折聞かれます。

相互に信頼が高い社会は社会性の高さの産物であって、結果として治安の良さや清潔さなどにもつながっているでしょう。しかし、相互の仲の良さ(社会性)の罠と言うべき部分も厳然と存在します。集団的排除といった、何か別のネガティブな側面とトレードオフになっている可能性があるわけです。

 

著者紹介

中野信子(なかの・のぶこ)

脳科学者

1975年、東京都生まれ。脳科学者、医学博士、認知科学者。東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。フランス国立研究所に博士研究員として勤務後、帰国。脳や心理学をテーマに研究や執筆の活動を精力的に行う。現在、東日本国際大学教授。

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