医師に教わった「失敗を思い出して消えたくなる」思考が治まる魔法の言葉
2025年03月13日 公開
X(旧Twitter)にて「日々の生きづらさのモヤモヤを言語化」するポストが注目を集める、よでぃさん(yod_blog)。大学卒業後、フリーランスとして働く中でうつ病を発症し、人生のどん底を経験されたといいます。
そんなよでぃさんは、ご著書『明けない夜があるのなら夜更かしを楽しめばいい』にて、ネガティブな性格に悩む人に向けて、生きづらさを和らげるための言葉を綴ります。その中から、心を軽くするための思考のヒントをいくつかご紹介します。
※本稿は、『明けない夜があるのなら夜更かしを楽しめばいい』(KADOKAWA)の内容を一部抜粋・編集したものです。
うまく生きられないときがあって当たり前。だって半分バナナだもん
僕はある日、不定期で受けているカウンセリングに足を運んだ。
当時の僕は、仕事や人間関係など何をやっても失敗続きで、「どうして自分はこんなにも上手に生きることができないのだろう」と落ち込んでいた。
これは、そんな僕とカウンセラーさんとの少し風変わりなやりとりの記録である。
「そういえば、人とバナナの遺伝子って50%一致するらしいですよ」
「......はい?」
突然の話に、僕は困惑した。なにしろ、目の前にいる人が唐突にバナナの話を始めたのだから。
「ですから、人とバナナの遺伝子は50%一致するらしいんです」
「いや、聞こえてましたよ。聞こえていたうえで『はい?』と言ったんです」
僕の頭の中はクエスチョンマークで埋め尽くされた。本当に、いきなり何を言い出したのだ、この人は。
「ええと、まず、それって本当の話なんですか? その、人とバナナの遺伝子が一致するっていう......」
「正しくは、50%一致する、です。噓だと思うのなら調べてみてください」
その言葉を聞いた僕は、カウンセラーさんに許可をとってスマホを取り出し、『人間 バナナ 遺伝子』と検索をかけた。
「......ほんまや」
「でしょう?」
検索結果としてヒットしたネット記事には、確かに『ヒトとバナナの遺伝子は、ざっくり50%同じです』と書かれていた。
「......まあ、人とバナナの遺伝子の話はもうわかりました。ですが、どうして突然そんな話を?」
そう尋ねると、カウンセラーさんは少し何かを考えるようなそぶりを見せ、ゆっくりと口を開く。
「要するに、人って半分はバナナなんですよ。みんなが思っているよりも優れた生き物なんかじゃないんです」
カウンセラーさんは口元にかすかな笑みを浮かべ、さらに言葉を続けた。
「だから、うまく生きられないときがあって当然です。だって半分バナナだもん」
僕はそこで、この人は失敗続きでへこんでいた僕のことを励ますために、こんな突拍子もない話を始めたのだということに気が付いた。そしてその励ましは、確かに僕の心を軽くしてくれた。
「なるほど、人はバナナ......」
「はい。人はバナナです」
人はバナナ。
この言葉は、今でも僕の心のお守りとなっている。
うまくいかないことがあって落ち込んだとき。
僕はなんてダメな人間なのだろうと自分を責めたくなったとき。
この言葉を思い出しては、少しだけ気分を楽にしてもらっている。
ところで、人が半分バナナなのだとすると、他人に対して抱く恐怖や嫉妬という感情も少しだけ和らぐ気がする。
理不尽にきつく当たってくる会社の上司も。
なんでもそつなくこなしていて、完璧な人間であるかのように見える同僚のアイツも。
みんな半分はバナナなのだ。
みんなしょせんはバナナなのだ。
人生は、失敗してしまうときがあって、当たり前。
スベってしまうときがあって、当たり前。
必要以上に、人を怖がる必要はない。
必要以上に、他人に嫉妬する必要もない。
だって、人は半分バナナだもん。
<いつも怒っているあの人だって、実はバナナ>
参考文献:小林武彦『なぜヒトだけが老いるのか』(講談社、2023年)
「うまくいくこと」を期待するよりも「うまくいかない」を受容すること
経験者ならわかる人も多いと思うが、うつ病の症状には波がある。
僕の場合、調子が悪い時期は一日中起き上がることさえもままならないような日々が続いたが、調子がいい時期は多少であれば外に出て人に会うこともできた。
以前、そんな調子がいい時期に友人と連絡を取り、一緒にボードゲームをして遊ぶ約束を取り付けたことがある。
久しぶりの外出だったために、僕のテンションは高まった。早くその日が来ないかと、ワクワクしながら毎日を過ごした。
数日が過ぎ、約束の当日。僕は体調が急激に悪くなり、予定をキャンセルせざるを得なくなった。
結局はこうなるのか。僕は人生を楽しむことも許されていないのか。
たかが遊ぶ約束が一つなくなっただけではあるが、どうしようもなく気分が落ち込み、なにもかもが嫌になった。
人生なんて、しょせんは思い通りにいかないことばかりのクソゲーだ。
このように「人生が思い通りにいかない」と嘆きたくなる状況の背景には、必ずといっていいほど、とある感情が隠されている。
その感情の名前は、「期待」という。
うまくいくことを期待し、その期待通りの結果が得られなかったときに、人は落ち込むのだ。
とはいえ「人生は思い通りにいかない」というのもまた、まぎれのない事実である。
人生のありとあらゆるイベントにおいて、「運」という要素が執拗に絡んでくるためだ。
仕事で成功することができるかどうか。病気にならずに過ごせるかどうか。
スポーツでいい結果を残せるかどうか。心から愛しあえるパートナーと出会えるかどうか。
それらのすべてに「運」は作用する。
無論のこと、望み通りの結果を得られるかどうかに「努力」という要素も大きく関与していることを否定するつもりはない。
それでも、運という名の悪魔の気まぐれで物事の結果が決まる場合も決して珍しいことではないというのが、この現実の正体であると僕は考えている。
だからこそ大切なのは、そんな思い通りにいかない現実を受け止めるための心のクッションを備えておくことではないだろうか。
人生は100%自力でコントロールすることができるものではない、と頭の片隅に置いておくこと。
期待通りの結果が得られなかったとしても、「そんなときもある」と受け入れること。
「うまくいくこと」を期待するのではなく、「うまくいかない」を受容すること。
それこそが、思い通りにいかない人生を生き抜くためのコツなのだ。
そして、目の前の現状を受け止めて、「じゃあどうすればいいのか」と思考を巡らせ、今の自分にできることを積み重ねていく。
理不尽な現実と戦うためには、そうやって自分で自分を守りながら少しずつ前に進んでいくしかないのだろう。
もちろん、期待通りの結果を得ようと頑張っている自分自身へのねぎらいも忘れてはいけない。
運ゲーでクソゲーな人生を戦い抜いている皆様方、生きているだけで天才です。
<心のクッションが世の中の理不尽から自分を守ってくれる>
あなたを救う魔法の言葉「過去の自分は赤の他人」
仕事で失敗をしてしまった。人との会話の中で余計な一言を発してしまった。
どうしてもっとうまくやれないのだろう。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
こんなふうに、過去の失敗がフラッシュバックして後悔の念に苛まれる瞬間が訪れたとき、思い出してほしい合言葉がある。
それは「過去の自分は赤の他人」。
一時期、僕はフラッシュバックの地獄に苦しんだ経験がある。過去の失敗を思い出しては消えたくなり、ネガティブ思考をなんとかして頭の外に追い出そうと試みた。
それでも考えることをやめられず、思考の荒波に飲み込まれるような感覚が僕を襲う。
何にも集中することができなくなり、考えすぎのストレスで頭がパンクしてしまいそうだった。
ある日、こころのお医者さんにその悩みを相談したところ、こんな答えが返ってきた。
「過去を後悔するということは、それだけ今の自分が成長できている証拠です。過去の自分は、もはや赤の他人くらいに考えておくといいと思いますよ」
この言葉を聞いたとき、僕の心にじんわりと温かいものが染みわたっていくのを確かに感じた。
もう自分のことを責めなくてもいいのだと、許しを得たような心地だった。この考え方を意識するようにしてから、僕は後悔の念に苦しめられることが減っていった。
それは「後悔すること自体がなくなった」というよりは、「後悔はしても自分をあまり責めなくなった」といった感覚だ。
今でも過去の失敗を思い出す瞬間は度々あるけれど、「そのときの自分は今となっては赤の他人のようなものだ」と捉え直すことで、一歩引いた目線で自分が犯したミスを顧みることができるようになった。
人生に後悔はつきものだ。
「悔いのないように生きよう!」と口にする人をしばしば見かけるが、僕のようなネガティブを拗らせた人間にとっては、そのような楽観的な生き方は夢物語にすぎない。
だから、後悔はしてもいい。
だけど、後悔してしまう自分を責める必要はまったくない。
そして、後悔を後悔のままで終わらせるのはもったいない。
後悔は、今の自分をより成長させるための糧として活用してやろう。
大切なのは、過去の自分の過ちを客観視する目線を身に付けること。起きてしまった過去を変えられないと頭でわかっていても、他人から「考えすぎだよ」と言われても。
つい自分を罰するように責めてしまうループにハマったときにあなたを救う合言葉が、「過去の自分は赤の他人」だ。
<後悔することができる人は、自分の過去に責任を持てている人>