人類はどのような環境で進化してきたのか。ヒトにとって調理をすることがなぜ画期的だったのか。進化生物学の第一人者である長谷川眞理子氏が解説する。
※本稿は、長谷川眞理子著『美しく残酷なヒトの本性』(PHP新書)より内容を一部抜粋・編集したものです。
ヒトの適応的進化環境
人類とは、どんな生息環境で進化してきたのだろう?世界中のさまざまな環 境に適応し、世界の隅々にまで進出している私たちヒトが進化した舞台とは、どんなものだったのだろう?
これは、ヒトの適応的進化環境と呼ばれるものだ。それは、たった1つの環境として描写できるものではない。
たとえば、ライオンの進化環境と言えば、アフリカの草原で大型草食獣を捕食する、という環境だ。しかし、こんなふうに描写できるという意味で、ヒトの進化にとっての1つの環境は存在しない。ヒトは、赤道地帯から北極まで、熱帯降雨林から砂漠からツンドラまで、あらゆるところに住み、肉も魚介類も植物も食べている。
では、ヒトの適応的進化環境とは何だったのか。それは、ヒトがどこに住んでどんな暮らしをしていようとも、すべてに共通していた状況である。
①ヒトは、高栄養、高エネルギーの獲得困難な食物に依存している
②その食料獲得をはじめとして、暮らしの全般が高度な道具の使用に依存している
③そのような技術の全部を習得するために長い年月を要する
④集団をつくり、生なり業わいのために高度な協力を不可欠とする社会を運営している
⑤比較的長寿で3世代共存の生活であり、血縁、非血縁を含む多くの人びとの協力によって子育てをする
というのがその概要だ。
直立二足歩行の利点
これらの特徴は、ヒトの適応が起こった進化環境(EnvironmentofEvolutionaryAdaptedness)ということで、通称、EEAと呼ばれている。EEAは、さまざまな場所に住んでいる狩猟採集民たちの暮らしを一般化し、その暮らし方の特徴を抽出したものだ。現代文明社会における私たちの暮らし方も、基本的には同じだ。
こういう生活をしてきたことは、ヒトの身体の解剖学的構造などとも密接に関連している。私たちは、直立二足歩行で効率良く長距離を歩いたり走ったりできる。また、体毛の少ない皮膚にはたくさんの汗腺が分布しており、そこから出る大量の汗によって、体温調節ができる。獲物を狩って、高栄養、高エネルギーの食物を食べることができることと、この身体の構造とは表裏一体である。
暮らしのためにいろいろな道具に依存していることの裏には、直立二足歩行で、運動機能から解放された手の存在がある。四足歩行ではないので、手はつねに自由となり、もともとの器用さと相まって多くの道具を製作できるようになった。
それにはまた、どんな道具をつくり、どんな使い方をすればよいか、考える能力が必要だ。ヒトの脳は大きく、いろいろなことを考えることができる。また、複雑な社会をつくって、多くの人びとと共同作業をしていくには大きな脳が必要だ。
そして、こんな大きな脳を成長させるためには長い時間がかかり、親だけで子を育てることはできない。寿命は長く、多くの人が子育てに関わることになる。
調理こそがヒトの進化の要
では、ヒトの適応的進化環境の特徴①ヒトは、高栄養、高エネルギーの獲得困難な食物に依存している、について考えてみよう。
いくつかの狩猟採集民の集団の食料と、野生チンパンジーの食物の内容とを比較した研究によると、その集団がどんな生態環境で暮らしているかによって、変動の幅はあるものの、すべてのヒト集団では、狩猟による肉の割合が高かった。一方、チンパンジーもときどき肉食はするものの、食料全体に占める割合はわずかだった。
また、ヒトの食料には、植物性のものであっても、皮をむく、あく抜きをする、火を通す、などの手を加えねばならないものが多い。一方、チンパンジーの食料で、何らかの手を加えねば食べられないものなど、ほとんどない。
つまり、チンパンジーは、手でもぎ取ったものをそのまま口に入れて食べているのだが、ヒトはそうではないのだ。
ここで大事なのは、火を通すということである。ヒトはいろいろな目的で火を使うが、なによりも大事なのは、調理という行為に違いない。肉でも植物でも、火を通すと消化が容易になり、より多くの栄養やエネルギーを摂取することができる。お米を生で食べることはできないし、多くの豆類もそうである。タルタルステーキという選択肢もあるにはあるが、バーベキューで焼ける肉の匂いはことさら魅力的だし、たしかに栄養摂取の効率は、焼いたほうが良いのである。
ヒトの進化と食べ物の関係について、面白い研究がある。内臓には、脳、心臓、肝臓、腎臓、胃、腸などいろいろある。いろいろな種の霊長類の体重と、それぞれの臓器の重さの関係を調べてみた。
ヒトの標準体重を65kgとし、普通の霊長類として計算したときのそれぞれの臓器の重さの期待値を求めた。すると、心臓、肝臓、腎臓では、その期待値と実際の重さとはぴったり合っていたのだが、ヒトの脳は、期待値の3倍以上も大きかった。そして、腸の重さは、期待値のおよそ半分ちょっとだったのである。
それぞれの内臓にはそれぞれ重要な働きがあるのだが、それらの内臓を維持するコストは、内臓によって異なる。つまり、ただもっているだけでどれだけのエネルギーを必要とするかが、内臓ごとに異なるのだ。そして、維持コストの最も高い臓器は、脳と腸なのである。
それを考えると、ヒトは、限られたエネルギー・バジェットのなかで、脳を大きくした分、どこを削ったかというと、腸を小さくしたのだ。それが可能だったのは、火で調理することで、栄養とエネルギーの摂取効率を高めることができたからだというのが、この研究の結論である。
「調理こそがヒトの進化の要」ということだが、私はこの仮説に非常に納得している。