「語感」を意識して正しいコミュニケーションを!
2013年02月19日 公開 2024年12月16日 更新
《 『日本語の「語感」練習帖』より》
ことばには意味と語感がある――語感とは何か
コミュニケーションの手段として、言語表現はけっして万全ではない。ことばを正しく伝えるためには、その時どきの場面に応じた相手の気持ちや状況を察し、受け手が解釈できる範囲内で意味を調整する必要がある。
つまり、ことばが通じるのは、受けとる側の人間がそれを手がかりにして、相手の表現しようとしている意図をくみとろうとするからだ。相手が理解しようとしてくれて、表現ははじめて通じる。その意味でコミュニケーションは送り手と受け手との共同作業なのである。
コミュニケーションでは、さまざまなシーンで相手が何を表現しようとしているのかをとらえ、それに的確に対応することが必要だ。そのためには、日本語の使い方に関する基礎知識を思い返し、それを有効に働かせることである。
人はものごとを伝えようとするとき、2つの方向から最適のことばを選び出す。1つは「何を伝えるか」という意味内容で、もう1つは「それをどんな感じで相手に届けるか」という表現方法である。これは芸術における素材と手法の関係に似ている。
たとえば「寄付」「寄贈」「寄進」「喜捨」「献金」「醵金 〈きょきん〉」「義援金」「寄付金」ということばは、金品を贈ったり集めたりする点では共通する。だが、それぞれの語の示す対象や範囲には、ずれがある。「時間」と「時刻」、「触れる」と「さわる」、「疲れる」と「くたびれる」、「美しい」と「きれい」のような似た意味のことばでも、ニュアンスは微妙に異なり、用法にも違いがある。
一方、「ふたご」と「双生児」、「あした」と「あす」と「明日」などには、はっきりとした意味の差はほとんどない。だが、場面や状況によって、それぞれに適不適があり、感じの違いもある。
日本人は意味の微妙な差だけでなく、微細な感覚の違いによることばの使い分けにも細かく神経をつかってきた。この2つのうち前者を「意味」、後者を「語感」と呼ぶ。
「意味」は、「その語が何をさし示すか」という論理的な情報を伝えるハードの面で働き、「語感」は「その語が相手にどういう感触、印象、雰囲気を与えるか」という心理的な情報にかかわるソフトの面で働く。ハード面を中心的な意味、ソフト面を周辺的な意味と呼ぶこともある。
伝えたい内容を相手に送り届けるため、人は誰しも無意識のうちに、このハードとソフトの両面からことばを選んで話したり書いたりしている。
言語感覚の鋭い人は、このハードとソフトの両面から、早く適切な語を選び出す。「何をさすか」という点で微妙な差のあることばから、この場合に妥当なものをいくつか取り出しつつ、それらのニュアンスの微妙な違いを読み取り、相手や場面、その他の条件に合ったもっともふさわしい一語を選んで、ぴたりと当てはめるのである。
話をしていて相手に真っ先に伝わるのは、ことばの意味よりも、むしろ、ことばの奥にある調子であるという。人は何よりもまず、相手が語ることばのリズムやテンポ、音の強弱といった、ある種の調子を感じとる。相手の心に強く響くのは、ことばの背後に流れるそういう音楽であり、その音楽の底を流れる情熱であり、情熱の奥に息づく人間そのものなのだと、かのニーチェは考えたようだ。
この “ことばのある種の調子” には、「語感」という言語の感性的側面も含まれる。話している相手には、ことばの意味だけでなく、ことばのリズムや微妙なニュアンスを伝えようとする自分自身も、同時に伝わる。どのようなことばを選んで表現するか、そこにセンスや教養、趣味、性格、態度、考え方といった、その人のすべてが反映する。
「語感」という表現の感性的な面を意識し、その微妙なニュアンスを感じとるセンスを研ぎ澄ますことは、自分自身をよりよく表現することにつながるのである。
(では、日常生活で実際に起こりがちなまちがいや悩みを具体的に取り上げ、正しいコミユニケーションのあり方を考える『日本語の「語感」練習帖』の中から一部をご紹介しましょう)
謝罪のことばも一歩まちがえると大ごとに
◆朝の通勤の満員電車で、急ブレーキがかかって後ろにいた人の足を思いっきり踏んでしまった。「申しわけない」という気持ちを抱きつつも、とっさに「あっ、どうも」とだけ言ったら、相手が猛然と怒りだした。
この場合の「どうも」は、「どうもすみません」の省略形である。「どうも」という語は「いかにも」「まったく」といった意味を添え、感謝、祝福、恐縮、謝罪、お悔やみなどを述べる際に、「先日はどうも」「いやどうも」というように挨拶に広く用いたり、「どうもありがとうございます」「どうもお世話になりました」「どうもすみません」というように、それに続くことばをやや強調するように使ったりするのが一般的である。
だが、現在は簡略形として「どうも」だけで使われることが、どうも多くなっているようだ。挨拶でも感謝でも謝罪でも、なんでも「どうも」で済ませてしまうので、そのことば自体が、どうしても相手に軽い印象を与えてしまうことは否めない。
特に謝罪の場合、遭遇したケースによっては、「どうも」と言っただけだと、相手の受けとり方と自分の思いとの間に大きなずれが生じることもある。現代のようなストレスの多い世の中では、悪くすれば車中での殴り合いに発展する可能性もないとは言えない。だから、使い方には十分に気をつけたい。
謝罪のことばはいくつかあるが、それぞれ使える状況に若干の違いがある。「失礼しました」「すみません」「申しわけありません」「ごめんなさい」などの類義表現をぴたりと当てはめて使うには、その違いを意識しておくことが必要だ。これらはどれも日常の表現だが、いつ、どれを使ってもいいというわけではない。それぞれに、多少のニュアンスの違いがある。
「失礼しました」は、自分の不注意などでその場にふさわしくない態度をとったり、相手に対して礼を失する行為をしたりした場合に使う表現だ。部屋をまちがえてドアを開けてしまったときなどには「失礼しました」でいいが、部屋の主人のいない間に土足で入りこみ、夕食の料理を食い散らかしたところで見つかったときなどは、陳謝のことばとしてはあまりにも軽すぎる。まして、車ではねて相手に重傷を負わせたあとに「失礼しました」などと言おうものなら、周りの人間に袋だたきにあいかねない。
「すみません」は、それよりはいくらか謝罪の意味が強くなる。が、それでもある程度軽い過ちの場合に限られる。相手に莫大な被害を与えたときなどは、「すみません」ではとても済まない。
そういうときは「申しわけありません」を使ったほうが適切だろう。が、「申しわけありません」は、申し開きのしようがない、つまり弁解の余地がないという意味だから、あまり些細なことに対して連発すると、謝罪のたたき売りみたいで効果が薄れる。
たとえば名簿を読み上げていて、「フジタニ・ヒロコさん」を「フジヤ・ユウコさん」と読みまちがえた場合などは、「失礼しました」で間に合う。その程度のときに「申しわけありません」を使ったりするのは、いささか大げさすぎるだろう。どうかすると、それを聞いていた人たちが、名前をまちがえられたせいで、藤谷裕子さんが年金か何かをもらいそこねたのかと、よけいな心配をするかもしれない。
「ごめんなさい」は、「自分を許せよ」というのがもともとの意味だ。相手に及んだ被害や迷惑が極端に大きいときに、「ごめんなさい」だけで許してもらおうというのでは、虫がよすぎる。だから、駐車中のロールスロイスにトラックで激突して大破してしまった場合などは、「ごめんなさい」ではとうてい済まない。
また、「ごめんなさい」は、相手に与える被害が偶発的なものか、他の要因の影響で起こったものかといった、本来は自分に責任がないようなときにしばしば使われるという指摘もある。とすれば、明らかに責任が自分にある場合に使うのは不適切だということになる。責任の所在にはふれないという意味で、やや逃げ腰の謝罪という感じを持つ人もいる。現実の社会では、果たしてどの程度なのだろうか。
これらの表現の感じの違いを例文の電車のケースに当てはめると、後ろの人をちょっと押したぐらいでは「失礼しました」、強くぶつかったり押した場合は「すみません」、足を踏んでしまった場合はやはり「申しわけありません」と言って、それぞれに応じた適切な表現できちんと謝るべきだろう。