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Moguru(本の話)

連載小説「報復捜査」 第7回 安東能明

安東能明(小説家)

2026年10月14日 公開

殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?

 

第7回

伊場(いば)は、ひとり、駐車場に立っていた。

線香の煙が、風に流れていく。小暮(こぐれ)は、いまどこにいるのか。そういうことを、ふと考えた。小暮が何かを知っていて、それを守ろうとして、死んだ。その「何か」は、煙のように形をとらないまま、伊場の手の届かないところを漂っていた。

川本百合(かわもとゆり)。

その名前だけが、手の中に残っていた。

寮に戻ったのは、午後七時ちょうどだった。郵便受けに茶封筒が入っていた。差出人はない。清川(きよかわ)からだ。部屋に入って封を切った。

不法就労助長容疑の取調調書に、スーツをきっちり着込んだ阿久津(あくつ)の写真。担当弁護士の名前と事務所の住所、留置期間中の看守日誌、同房者の氏名と簡単な身上まで、A4の紙三枚にわたって綴られていた。最後の一枚の余白に、鉛筆で一言だけ添えてあった。

身辺に気をつけろ

伊場はそれを読んで、しばらく動けなかった。

封筒をテーブルに置き、焼酎をコップに注いで、ストレートで飲んだ。

喉が焼けた。

圭子(けいこ)の声が、耳に残っていた。和(かず)くんの死を無駄にしないで。ほんとうに、あなたが撃ったの。

伊場はコップを握りしめた。

あの言葉は何だったのか。ただの事故で死んだんじゃない。圭子はそう言った。

馬鹿な、と思った。考えすぎだ。夫を失った妻が、その死に意味を求めているだけだ。そう思おうとした。

だが。

小暮の最後の言葉が、よみがえる。おまえのせいじゃない。絶対に警察を辞めるな。

あれは、ただの慰めだったのか。

ふと、別の考えが頭をかすめた。おまえのせいじゃない、というのは、赦(ゆる)しの言葉ではなかったのではないか。おまえは何も知らされていないからそういう意味ではなかったか。

すぐに打ち消した。

都合のいい逃げ道を探しているだけだ。自分の罪を軽くしたくて、ありもしない裏をでっち上げようとしている。そんな卑しい考えだ。

だが、一度浮かんだその考えは、消えなかった。通夜で永島が見せた、あの無念そうな顔がよみがえる。何かを抑え込むような、圭子の思い詰めた目も。葬儀の段取りは、誰かが先回りしていたように手際がよすぎた。新井は、何かを口にしかけて、そのまま飲み込んだ。そのどれもが、ばらばらのようでいて、見えない一点を指している気がした。

伊場は焼酎をもう一口あおった。

わからない。何もわからない。ただ、ひとつだけ確かなことがあった。

このまま警察を辞めて、すべてを忘れて生きていくことは、もう、できそうになかった。

きょうも眠りは浅いだろうと思った。

 

4

 

告別式は、午前十一時に始まった。

昨日よりも人が多かった。斎場の受付から式場の扉まで、喪服の列が廊下に続いている。線香の煙が、低い天井に溜まっていた。警察関係者と見知らぬ男たち。中学校のときの同級生も五人ほどいる。伊場は末席に立った。

昨夜と同じ公安の面々が、式場の右側の席に固まっている。相良恒一(さがらこういち)が壇に向かって座っている。その横に外事二課長の三宅(みやけ)と第一係の安部(あべ)係長。永島の姿はなかった。

探したが、見つからない。

昨夜、あれだけ深く悲しんでいた男が、なぜきょうは来ていないのか。

式が進んだ。読経の声が低く響く。香の煙が、また立ち上る。圭子は親族席の最前列で、背筋を伸ばして座っていた。泣いていなかった。昨日は泣いていたのに、今日は涙ひとつ見せない。その横顔が、何か遠いものを見ているようで、伊場の胸をざわつかせた。

小暮の父の康広(やすひろ)が、弔辞を読んだ。落ち着いた声だった。だが、声の奥にかすかな震えがあった。元都庁幹部の、どこか世渡り上手そうな顔立ちをした男が、それでも一箇所だけ詰まった。和孝は正直な子でした、という一文を読んだとき。それきり、少し間が空いた。

その一文が、胸に刺さった。

正直な子。

おれみたいに、ならないでくれ。

おまえはいったい、いつから自分が不正直になったと思っていたのか。

出棺になり、参列者が外に出た。霊柩車の前に、小暮の棺が安置される。白い布に包まれた箱が、太陽の下に出てきた。淡い六月の光が、無慈悲に照りつけている。圭子がその箱に手を置いて、しばらく動かなかった。

小暮の母親が肩を震わせ、隣の女性に支えられていた。

伊場はそれを、少し離れたところから見ていた。

近くまで行けなかった。

霊柩車の扉が閉まった。エンジンが静かにかかる。走り出すのを、伊場は最後まで見送った。

火葬場に向かう親族たちの背中が遠ざかっていくのを見て、伊場は歩き出した。

相良と目が合った。

公安部長は、一秒も経たないうちに視線を外した。部下たちに何か一言告げて、駐車場の方へ歩いていく。その背中に、伊場は何も言えなかった。

まだ何も持っていない。

証拠も、確証も、手がかりさえ、何ひとつ。

斎場の駐車場に停めてある車に乗り込んだ。すぐにはエンジンをかけなかった。

圭子の声が、まだ耳に残っていた。和くんの死を無駄にしないで。

昨夜から、その言葉が頭を離れない。打ち消そうとしても、戻ってくる。考えすぎだと思おうとするほど、ばらばらの違和感が、ひとつの方向を指そうとしているように思えてくる。

まだ、半信半疑だった。それでも、確かめずにはいられなかった。確かめて、何もなければそれでいい。ただの事故だったとわかれば、自分は心置きなく辞表を出せる。そう自分に言い聞かせて、伊場は永島の番号を押した。

三回コールして、つながった。

「永島です」

声が、昨夜より小さかった。

「伊場です。きょう、告別式には来ていなかったようなので」

「......すみません。少し、具合が悪くて」

具合が悪い。それは本当かもしれない。だが、それだけではないような気がした。

「少し、訊いてもいいですか」

「......はい」

「阿久津が暴れて逃げたとき、あなたもあの取調室にいたんですか」

一拍、間があった。

「......いました。立会いで。小暮さんと、わたしの二人で」

「逃げられたのは」

「止められませんでした。阿久津が、いきなり小暮さんを突き飛ばして。わたしも飛びかかったんですが、間に合わなくて。ドアの外に出られて、そのまま」

声が、わずかに沈んだ。

「あの場にいたのに、止められなかった。それが、ずっと......」

言葉が途切れた。伊場は、少し待ってから訊いた。

「ふだんから、立会いはあなたが?」

「形のうえでは、わたしや別の若い者が立会いに入っていました。所轄の生安(せいあん)は、はなから外されて。吉祥寺署から上がってきた事案そのものは軽微でしたから、形だけでもと上が判断して、ソトニが丸ごと引き取ったんです。最初のうちは、取調室での調べに、わたしも立ち会いました。やり取りも、聞いています。ただ......」

電話の向こうで、永島の声が一度途切れた。

「途中から、立会いを外されるようになって。きょうはもういい、と。小暮さんが一人で阿久津と向き合う日が、増えていきました。留置から出してもらった阿久津と、取調室で、ふたりきりで。調書も、ろくに取らなくなって。何を聞き出して、どこへ向かっているのか、肝心のところは上にも、わたしにも、いっさい話さなくなりました。立会いのわたしですら、ある時期からは、何も知らされていなかったんです」

「そうでしたか......で、阿久津というのは質の悪いブローカーだったんですか」

「善し悪しはともかく、住居や働き口、携帯電話、銀行口座といった生活基盤を不法に提供すると思われる輩は徹底して挙げる、というスタンスです。スパイやテロリストのような外国人犯罪組織とつるんでいる可能性もありますから。ただ、今回はそこまでのものではないと思います」

「小暮は、保安係から引き継いで、取り調べを始めてから、どんな様子でしたか」

少し間があった。

「最初の一週間は、普通でした。本部で上司に作業の状況を報告しながら、淡々とやってて。......でも、ある時期から変わった」

「五月の月末くらいから」

「でしたね」

「何かきっかけでもありましたか」

「わかりません。ただ、報告の頻度が減って。取り調べの内容を、上やわたしにも話さなくなって。阿久津に何か、変な動きはないかって、留置の係員に直接確認するようになっていたみたいです」

「阿久津の安否を」

「そういう感じでした。阿久津が食事をとっているか、同房者と揉めていないか、夜ちゃんと眠れているか。そういうことを、自分で確かめようとしてたんです。なんか......守ろうとしてるみたいで」

守ろうとしていた。

公安の取り調べ対象である被疑者を、小暮は守ろうとしていた。それはどういうことか。電話が切れた。

しばらくエンジンをかけたまま、駐車場に停まっていた。

小暮は途中から、調べの中身を組織に上げなくなった。報告そのものは続けていた。だが、肝心の読みだけを、上にも立会いにも伏せていた。そのうえで、被疑者の安否を、自分で確かめようとしていた。

なぜ小暮は、つかんだものを組織に上げなかったのか。

考えながら、伊場はあの十四階の冷えた空気を思い出した。誰が誰を売るかわからない、あの場所。情報は、上げれば上げるほど、誰かに握られ、握りつぶされる。そういう世界に小暮はいた。何かをつかんだとき、上に報告することが、かえって身を危うくする。だとすれば、小暮が報告を止めて単独で動いたのも、あの場所の論理では、むしろ筋が通っているのかもしれなかった。

守ろうとしてるみたいで......永島の言葉が、胸に残った。

もし、ただの事故なら。小暮が報告を止めた理由も、被疑者の安否を気にした理由も、ありはしない。だが、現にそれがあった。圭子の言うとおり、小暮は何かを抱えていた。

考えすぎかもしれない。そう思いながらも、伊場の足は、もう動き始めていた。阿久津という男が何者だったのか。それを知らないことには、半信半疑のままどこにも進めない。

行くべきところは決まっていた。伊場は普段着に着替えて、車を出した。大久保へ向かう。

武蔵野市の斎場から青梅(おうめ)街道を東へ走り、環七に入った。平日の昼過ぎ、道は流れていた。中野を過ぎ、山手通りを北上する。新大久保の交差点で折れると、道が急に細くなった。

車一台がようやく通れる幅だ。歩行者が来るたびに速度を落とす。両側の建物が迫ってくる。

道の両側には、小さな店舗が軒を連ねていた。韓国コスメの派手な看板、アイドルグッズを山積みにしたショーウィンドウ、ネパール料理の赤い旗、ミャンマー食材店の手書きの値札。スパイスと揚げ物の香りが、路地に混じり合って流れている。平日の昼前なのに、若い女の子たちの集団が連れ立って歩いていた。日本語と韓国語と、何かもうひとつ、聞き取れない言語が同時に飛び交っている。

早稲田の方角から来たとおぼしき学生風の男が、大きなリュックを背負って自転車を押していた。その横を、買い物袋を両手に提げた中年の外国人女性が追い越した。

どこか、別の国にいるような感覚がある。

新宿から歩いて来られる場所なのに、まったく別の空気が流れている。

ケアサービス施設の向かいに、三階建ての白いタイル張りのビルがある。地番ではここになる。となりのアパートとのあいだの空き地に車を停めた。ビルの外壁は少し煤けているが、それなりに整った造りをしている。一階部分が商業用の造りになっていて、シャッターが半分下りていた。アジアン・リンクというプレートが、扉の横についている。阿久津の会社だ。

インターフォンを押したが、何も聞こえなかった。

雨上がりの路地には、生ぬるい湿気がよどんでいた。どこかで、スパイスを炒める匂いが流れてくる。近くの厨房からだろう。食べ物の匂い、香水の匂い、雨上がりのアスファルトの匂い。すべてが混じり合って、路地の空気を作っている。

この街では、誰もよそ者を気にしない。多国籍の雑踏の中では、どんな顔つきの人間が出入りしても目立たない。外国人も学生も観光客も、みな自分の用事で動いている。阿久津のような男には、都合のいい場所だったのかもしれない。

となりに、小さなネパール料理の食材店があった。店先に香辛料が並んでいて、赤と黄の鮮やかな袋が積み上げられている。六十がらみのネパール系の男が店番をしながら、スマートフォンを見ていた。

伊場は警察手帳を見せた。男は一瞬だけ手帳を見て、それから伊場の顔を見た。

「日本語、大丈夫ですか?」

「大丈夫」と男は答えた。にこりともしなかったが、声は穏やかだった。

「おとなりの事務所のことで、少し聞かせてもらえますか」

「閉まってる」

「知っています。事務所を使っている人のことで」

男は伊場を観察するように見た。それから、ゆっくりと言った。

「スーツの人?背が高くて、眼鏡の?」

「そうです」

「あの人、あまり店には来なかったよ。週に二回か三回くらい。近所の人とはあまり話さない。うちの店に来たこともない。挨拶もしない」

男は少し間を置いた。

「感じが悪かった。こっちを見ない感じ。最初から」

「ほかに何か気づいたことは?」

「来るとき、後ろを気にしてた。いつも。特に最近は」

「最近というのは?」

「二、三ヶ月前から。来るたびに、入り口で一回立ち止まって、振り返って。それから入って」

礼を言って、今度は向かいのビルの方へ歩いた。

二階建ての古い雑居ビルで、一階に韓国系の古着屋が入っている。そのさらに奥の路地を折れたところに、小さな惣菜屋があって、六十代くらいの日本人の女が店の前を掃いていた。

伊場が声をかけると、女はすぐに顔を上げた。

「ああ、あの人ね」

「ご存知ですか」

「名前は知らないけど、スーツの人でしょ。靴がいつもピカピカで。なんか、ここでは浮いてたわよ」

女は箒を持ったまま続けた。

「一度、この前でバイクの人とぶつかりそうになって。大声で怒鳴ってたの、その人が。ここは元々、自転車も人も多いんだから、慣れてないなら入ってくるなって感じだけど。でも、怒鳴り終わったら、すごくあわてて周りを見回してた。怒鳴ったことを後悔してるみたいな感じで。大声を出して自分が目立ったことが、嫌だったのかな」

「目立つことを嫌がっていた?」

「そう見えた。ここは、目立ったからってどうこうされるような場所じゃないんだけど。外国の人も日本の人も、みんな自分の商売で忙しいんだから」

女は、路地の先に目をやった。

「でも、なんかここの雑踏が好きなのかも、あの人。大久保って、誰が何してても誰も気にしないでしょ。そういう街だから」

伊場は、その言葉を頭の中で転がした。

多国籍の人の流れ。監視の目が散漫になる場所。阿久津はこの街の雑踏を、仕事の隠れ蓑にしようとしていたのか。

「最後に来たのはいつ頃ですか?」

「そうねえ。先月の中頃には、もう来なくなってたわ。シャッターが閉まったのはその頃」

逮捕の少し前、という計算が合う。

礼を言って立ち去った。

〈つづく〉

著者紹介

安東能明(あんどう・よしあき)

小説家

1956年、静岡県生まれ。明治大学政経学部卒。浜松市役所勤務の傍ら、94年『死が舞い降りた』で日本推理サスペンス大賞優秀賞を受賞しデビュー。2000年『鬼子母神』でホラーサスペンス大賞特別賞、10年には「随監」で日本推理作家協会賞短編部門を受賞。緻密な取材が生む警察小説やサスペンス小説で多くのファンを魅了している。

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