【連載:和田彩花の「乙女の絵画案内」】 第7回/アングル『泉』
2013年12月20日 公開 2024年12月16日 更新
ドミニク・アングル(1780-1867)
フランス新古典主義の画家。歴史画や神話画、宗教画、裸婦像、肖像画、風景画など、さまざまな画題を手がける。1780年、フランスの南部都市モントーバンで、王立美術アカデミー会員であった父のもとに生まれる。パリの新古典主義を代表する画家、ジャック=ルイ・ダヴィッドに師事。1801年には『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』(パリ国立美術学校蔵)でローマ賞を受賞し、国費でイタリアに留学する。パリへ戻ったのち、レジオンドヌール勲章を受け、アカデミー会員に。フランス・アカデミー院長や国立美術学校長、元老院議員など、要職の座についた。
陶器のような美しさ
絵画の歴史のうえで、裸体画はひとつの大きなジャンルを築いています。たとえばルノワール(第4回)などが有名ですね。
今回取り上げる、アングルの『泉』(オルセー美術館蔵)もそのひとつです。まるで陶器のような美しい肌が印象的。人間がモデルじゃないみたいに見えます。
ルノワールの裸体画とは、ぜんぜん違いますよね。私には、ルノワールが描く女性のほうが生き生きと感じられます。それが絵画のおもしろいところ。印象派らしいザザッとしたタッチで描かれているルノワールの絵のほうがリアルで、写真のように描かれているアングルの絵のほうが、生きている人間のように思えない。
絵画を観るとき、私たちの脳はどんなはたらきをしているんでしょうか。目から入ってきたいろんな情報は、頭のなかにある不思議な変換装置をとおって、感情まで届くんじゃないかな。観たものを、そのままには感じない。両者の絵を比べてみると、そう思えてきます。
絵であっても、生身の女性の裸を見るような裸体画は、やっぱり私には恥ずかしい……。アングルの絵は裸体画だけど、恥ずかしさを感じることなく、じっと観ることができます。いったい、なぜでしょうか。
アングルの絵は、ひと言でいったら「完璧」です。美術学校の校長先生までつとめたアングルは、テクニックなら「おまかせあれ!」だったのだと思います。
『泉』に描かれた女性は、身体のラインも肌も、完成されています。でも、血が通っているような感じはしないのです。
写真のようだというより、彫刻と表現したほうがよいかもしれません。つるつるな彫刻を目の前にしているようです。まさに一級の芸術品といった感じ。
彫刻のような完成した造形だからこそ、私でも照れずに、素直にそのすばらしさを味わうことができるんだと思います。
「上手い」って何だ?
この絵が表しているのは、泉の擬人像といわれています。妖精のような存在でしょうか。
もしかしたらアングルは、女性の裸体をあまりに生々しく描いちゃうと問題になるということまで見越して、人間らしくないように描いたのかもしれません。
この絵の制作が開始されたのは、1820年。現在の常識とはまるで違うわけで、芸術家は世間の目や常識と闘っていたのでしょう。
アングルの絵の最大の特徴といえば、やはり圧倒的な「上手さ」です。
その上手さを武器に、アングルは常識を乗り越えて、一歩間違えば問題作になるかもしれない名作を描いたのではないかと思えてきます。『グランド・オダリスク』(ルーヴル美術館蔵、左図)なんて、いま観ても刺激的な感じです。
絵の上手さにもいろいろあります。観たとたんに、「きれいだな、上手いな」と感じる絵ばかりではありません。
画家が考えて考えて、試行錯誤もいっぱいして、苦労してできた絵――観るほうにそうしたいろんな知識があるからこその「上手い!」という絵もあります。
先ほどいったように、私たちの脳は目に入ってきた情報をいろいろな回路で分析して、評価します。その回路があってこそ、上手いと思うこともあるのでしょう。
でも、アングルの絵は、だれが観ても「上手い!」と思うはず。それは、アングルのことを知っていてもいなくても、変わらないと思います。そういう意味では、『泉』が新古典主義の傑作といわれるのも当然といえるのかもしれませんね。
完成したときから、すでにクラシックな作品なのです。
自分には、こんな絵を描くことはできない。そんな気持ちを、だれしもが、たとえ画家であっても感じてしまうのが、アングルのすごさ。
そんな作品の前に立つと、圧倒されるし、すごいと思います。尊敬とか敬意の念しか浮かんできません。
「上手い」って不思議な言葉だと思います。
スマイレージでも、新しいメンバーが入ってきて、たとえばダンスが明らかに私よりできていなくても「上手い」と思うことがあります。
それは、何もできなかったころを知っているとか、成長する姿を見てきているからでしょう。
努力や一所懸命さが、「上手い」と感じさせることもあるんだなぁと、新しい発見をした思いです。
理想の女性を求めて
あらためて『泉』を観てみると、泉の擬人化というだけあって、壺から水が湧き出てきていますね。陶器のような女性とあわせて観ると、まるで壺と人間が合体しているかのよう。
壺から流れる水のおかげか、足元には花が咲いています。でも、なんだか花に元気がありません。そのせいでしょうか、アングルにしてはちょっと雑な印象さえ受けます。
女性を描くことに、力を使い果たしてしまったのでしょうか。それとも、花よりも女性の完璧な美しさを描きたかったのか。アングルにその意図を聞いてみたいです。
『泉』と並んで有名な『グランド・オダリスク』も、陶器のような女性が裸で横たわっていますが、その美しさにうっとりします。
アングルの絵は写真のようだといってきましたが、もし、まったく同じ構図のモデルの写真が展示されていても、これらの絵のようには惹かれないと思うんです。
写真のように、一瞬でその世界観を切り取るよりも、何日も何年もかけて筆を重ねていくような、アングルの求めた理想の女性に心を奪われます。
今回、私はアングルが描く「色」のすばらしさにも、あらためて感動しました。写真のように、豊かな色彩を鮮やかに写し取れるんだ、ということに気づいたからです。
またひとつ、アングルが理解できるようになった気がします。
絵画は、観るたびに異なる魅力に気づくことができるのがとても楽しい。何回観ても、新鮮な気持ちで絵を観ることができます。
アングルの絵を、まだ一度も実際に観ていないことがとても残念。
本物を観ることができたら、どんな気持ちになるのかな。絵を前にした自分のことを考えるだけで、わくわくしてきます。
激動の絵画史
アングルの晩年は、印象派の父であるマネが『草上の昼食』(オルセー美術館蔵)を発表した、印象派前夜の時期と重なります。西洋絵画がそれまでと大きく異なる方向に舵を切っていく時代に、アングルという西洋画のイメージを体現したような画家が登場した、というのがドラマチックですよね。
新しい美術の潮流が見えてきたからこそ、アングルは最後まで絵筆を離さずに描きつづけたのかもしれません。
そんな激動の絵画史を、いまこうして感じながら絵を鑑賞できることは、とても感動的なことです。
自分が美術史を専門的に学ぶようになるなんて、絵画に目覚めたころは思いもしませんでした。あのころはただ、絵を観ることが楽しくて、それで十分だったのです。
でも、1つひとつの絵が描かれた歴史や背景も研究していくと、絵画鑑賞という海は私のなかでどんどん広く、より楽しいものになっています。
美術史という学問が存在する背景には、私のような素朴な探究心もあるのではないでしょうか。
<著者紹介>
和田彩花
(わだ・あやか)
1994年8月1日生/A型/群馬県出身
ハロー!プロジェクトのグループ「スマイレージ」のリーダー。
2009年、スマイレージの結成メンバーに選ばれ、2010年5月『夢見る 15歳』でメジャーデビュー。同年の「第52回輝く!日本レコード大賞」最優秀新人賞を受賞。近年では、SATOYAMA movementより誕生した鞘師里保(モーニング娘。)との音楽ユニット「ピーベリー」としても活動中。高校1年生のころから西洋絵画に興味をもちはじめ、その後、専門的にも学んでいる。
スマイレージ公式サイト
和田彩花オフィシャルブログ「あや著」