日露開戦・勝利をつかんだ「明治人の原点」
2014年10月03日 公開 2022年12月07日 更新
質量ともに行なわれた陸軍の強化策
一方の陸軍も、質量ともに強化を行なっていった。明治29年に6個師団を13個師団とする増強案を出し、議会で承認された。これは単に数を増やすというだけではなく、師団の野戦能力を強化するための編制替え(たとえば、近衛師団は近衛歩兵・近衛騎兵・野戦砲兵・工作連隊で編制)や、野戦砲兵連隊、要塞砲兵連隊の創設といった質の面での強化策も織り込まれている。
こうして明治42年(1909)を目指し、平時の野戦兵力が16万3000人、戦時動員兵力が54万5000人体制の陸軍がつくられていくが、明治33年にロシア軍が満洲に進駐したことなどによって、前倒しの必要性に迫られた。
対処に当たったのは、当時陸相を務めていた桂太郎だ。
――あのロシアを前にしては、悠長な事は言っていられない…。
桂は、屯田兵制の第7師団を通常の師団に改めるなど、さまざまな対策を講じた。この時の桂の迅速な対応があればこそ、陸軍は当初の計画より6年早く、明治36年に54万人体制を実現した。
質の点では、当然ながら教育が重視された。「人」に重きを置くのも日本軍の特徴である。陸軍は独自の「歩兵操典」を定め、戦法、戦術で統一された近代軍隊の育成を進めたし、明治29年から陸軍大学校の定員を2倍、陸軍幼年学校においては3倍に増やしている。さらには陸軍も海軍同様、人材を海外に送り出した。参謀次長として対露戦略を担当することになる田村怡与造は駐在武官としてドイツへ派遣され(明治29年)、満洲軍の参謀となる田中義一はロシアに留学(明治30年)、口シア陸軍に入隊して実情を見聞している。
しかし陸軍が開戦を迎えるまでに、大きな問題がなかった訳ではない。最も衝撃が走ったのは田村参謀次長の急死であった。田村は対露作戦に精魂を傾けた末の過労死と言われる。明治36年10月1日――日露開戦の4カ月前のことであった。
大きな支えを失い、陸軍は困惑した。代わりが務まる人材がいないのだ。福島安正、伊地知幸介、休職中の乃木希典らの名も挙がったが、元老の同意は得られなかった。そこで窮余の策として白羽の矢が立ったのが、ドイツ軍参謀のメッケルが「軍事の天才」と激賞した児玉源太郎だった。だが、児玉は当時内務大臣を務めており、次期首相候補でもある。陸軍内部では「児玉さんが受ける訳がない」との声があがった。何しろ参謀次長就任は児玉にとって、二段階の降格人事となる。
しかし、児玉は自ら声をあげた。
「私が参謀次長になりましょう」
国家あっての我ら、この非常時に個人の肩書きなど問題ではない。大事なのは、国家の為に何をなせるかだ――。児玉の偽らざる心境であった。そしてこの児玉の決断に最も喜んだのが、大山巌参謀総長であった。
「児玉さんが来てくれれば、おいは安心、陸軍は安泰じゃ」
この大山もまた、国家の大事を前に些事を気にする男ではなかった。象徴的なのが海軍軍令部の独立問題である。先の日清戦争では軍令部長が参謀総長の下に置かれたが、それを対等にするよう、海軍の山本権兵衛が強く主張した。「格下」だった海軍と陸軍との調整を進め、陸軍に軍令部の独立を呑ませる――セクショナリズムを排し、これを実現させた人物こそ、大山である。かくして海軍軍令部の独立後、初めて、陸海軍共同作戦計画が立案された。「日本を守るために、なすべきことをなす」という大山巌の強い意志があればこそ、陸海軍の協調が成立したといえよう。
では、大山・児玉は日露戦争をどのように戦おうと考えていたのか。「早期開戦、早期講和」を唱える児玉は、朝鮮半島の中立地帯に上陸するルートと、海軍がロシアの艦隊を抑えている間に遼東半島に上陸するルートを設定し、陸路を満洲の平野にまで進んで決戦するというシナリオを立てた。陸海軍の垣根を越えて戦略を練ったことが窺える。そして、総兵力では劣る日本だが、緒戦は戦場に敵の倍の兵力を集中し、敵を上回る機関銃を配備した。各戦闘における機関銃の数を比べると日本が口シアの1.5倍ほど投入しており、この点はよく準備したというべきだろう。
水面下で行なわれた「開戦外交」
三国干渉後、日本はロシアとの協商路線を模索したが、一方でロシアとの戦争に備える手も打っている。ドイツに装甲巡洋艦八雲と水宙艇17隻、フランスに装甲巡洋艦吾妻と水宙艇6隻、アメリカに巡洋艦千歳と笠置を発注したのは、その一例である。戦争になったとき、強力な同盟国があることは望ましいが、同盟を結ばなくても日本に好意的な国を増やしておくことは重要だ。三国干渉の当事者であるドイツとフランスに対してはロシアを応援しないようにという意図を含め、アメリカは日本に好意を寄せる可能性のある国という期待を込めてのことと思われる。
日本は、日英同盟を締結した後もロシアとの交渉を続けた。ギリギリまで戦争回避を模索していたといっていい。戦争をしたら勝てないという状態だったから、当然といえば当然である。それが明治36年の末にアルゼンチンから日進と春日を購入したとき、極東のロシア艦隊を戦力で上まわる目処が立った。つまり、「なんとか勝てるかもしれない」と考えられるようになったのは開戦の2カ月ほど前である。ただし、2隻が廻航されて日本に着くのは明治37年(1904)だ。制海権を掌握できなければ開戦できない。
残念ながら、明治36年から37年にかけてのロシアとの交渉は、日本がハードルを下げれば下げるほど、ロシアが強く出てきて、お互いに譲歩し合うという展開にならなかった。もちろん、そういうところがロシアの特性であることは桂太郎首相も小村寿太郎外相もわかっていたはずで、日露交渉の決裂を念頭に置いていたに違いない。
「一致協力」をもたらしたもの
最後に、グランドデザインを実現していくうえで見逃してはならない、民間レベルの協力に触れておこう。たとえば、ジャーナリズムでは徳富蘇峰や福澤諭吉が「強兵」を支持した。「六・六艦隊構想」に対して議会では「海軍力の増強に金を使うより工業の近代化を図れ」との反対が出た。それに対し福澤論吉は「軍艦なければ国防あり得ず」「海軍抜きにして独立はできない」という内容を新聞で主張し、「増税もやむなし」という論陣を張っている。
税金だけではない。政府は大蔵省証券(国庫証券)を発行し、金を集めた。県知事が市町村に国庫証券の購入割り当てを行ない、これに半官半民の「奨兵議会」などが協力した。「奨兵義会」とは、兵士が出征するときに駅で「万歳」を唱えたり、出征兵士の家の農作業を手伝ったりする団体で、いろいろな名称で全国に150ぐらいできた。そこを通して国民に証券を買ってもらうと、愛国心のある人々の団体だから一般に募集するよりもよく売れた。もっとも、日本が負ければ紙くずになるだけに、国庫証券の金利は普通の預金より高かった。
また、明治34年には内田良平などが黒龍会を創設し、ロシア語教育を始めている。ここで育った人々がロシア語の通訳として日露戦争に従軍した。同じ年に奥村五百子が戦死者・遺族の救済と兵士の激励・慰問活動を目的とする愛国婦人会を創設している。閑院宮妃を会長にいただき、会員は46万人を数えた――。
日露開戦までの日本に現代的な教訓を探すならば、国のためにとの「一致協力」である。指導者から一般国民に至るまで、日本を守るために力を合わせた。このことが日本を支える大きな力を生み出したのである。山本や児玉のエピソードに触れる度に、誰もが自分の損得を無視して「やらなければならない」という強い思いを抱いていたことが伝わってくる。
この「己を捨て、目的に向かって進む」という姿勢が「一致協力」という結果をもたらしたのであり、これこそが勝てそうもない巨大な敵に立ち向かって、見事に勝利をつかんだ明治人の原点だったのではないだろうか。
平間洋一(ひらま・よういち)元防衛大学校教授
昭和8年(1933)生まれ。防衛大学校卒(1期)。護衛艦ちとせ艦長、第三一護衛隊司令などを歴任し、昭和63年(1988)に海将補で退官。その後、防衛大学校教授、筑波大学講師などを歴任。法学博士(慶應義塾大学)。『日露戦争が変えた世界史』『日露戦争を世界はどう報じたか』『日英同盟』など著書多数。