思い切なれば必ず遂ぐるなり~野呂田芳成先生
2016年04月08日 公開 2023年01月19日 更新
野呂田芳成先生の人間的魅力に感銘
かつて日本と日本人は、こんなに素晴らしかった
以前、野呂田先生(当時、衆議院議員)の著書を担当した。タイトルは『思い切なれば必ず遂ぐるなり』。本書では政治家人生30余年、志を曲げずに生きた野呂田先生が人生の指針としてきた言葉を紹介している。名著である。
本書の「かつて日本と日本人は、こんなに素晴らしかった」という章より、一部を抜粋。
「実に陽光光燦たる日本晴れの一日であった。江戸湾を遡行する途中、これにまさる風景は世界のどこにもあるまいと思った」(『一外交官が見た明治維新』アーネスト・サトー著)
「真に優れた人達に初めて出合った」(フランシスコ・ザビエル)
「世界にこんな素晴らしい民族はいない」(ラフカディオ・カーン、日本名・小泉八雲)
「日本人は貧しいが高貴である。世界でたった一つだけ生き残ってほしい民族を上げるとしたら、それは日本人である」(フランス駐日大使 ポール・クローデル)
「我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」(アインシュタイン)
人間としての骨格
野呂田先生とお付き合いして、その人間性のすばらしさに感銘を受けた。お会いする度に、その魅力にぐいぐいと引き込まれる。
建設省のキャリア官僚を経て、国会議員を8期30年お勤めになった。防衛庁長官、農林水産大臣、予算委員長など要職を歴任し、政界の重鎮だった。
36歳の時、最年少で茨城県の開発部長として出向した。当時、難航していた鹿島臨海工業地帯の立ち上げに獅子奮迅の活躍をした。それは小説『砂の十字架』、映画『蘇る大地』に描かれている。
しかし、鹿島港の開港式典には出席しなかった。晴れがましい舞台に立つことも、その功績を誇ることもなく、去っていった。「何故、功労者のあなたが出席しないのか」と問われて、「私は何もしていません」と答えたという。
「どうしたら、先生のような人格陶冶ができるでしょうか」と尋ねた。
「母から『人にしてあげたことは水に流しなさい。しかし、他人に受けた恩は石に刻んでも忘れてはいけない』と教えられた」と野呂田先生がおっしゃった。
そこで、先生のお母さまの話になった。
「私が4歳の時、母が脳溢血で倒れ、自宅で寝たきりになった。毎日、母に薬をあげるのが日課だった。薬はレンガ色をしていたので、子ども心に、沢山服用すればよくなると思い、レンガを削り粉末にして母にあげた。その時、涙をながして『ありがとう』といってくれた。後に大学進学、国家上級試験に合格した時、何気なく母からもらったお守りの中身を見た。その中にはレンガの粉末が入っていた」
お母さまが亡くなられたとき、野呂田先生は棺の中に、そのお守りをそっと入れたという。
この母にして、この子あり。
人間国宝の茶碗を手に入れる方法
野呂田先生に趣味の話を伺った。
「今まで160カ国に歴訪した。一番感激したのはカッパドキアの大平原に沈む夕陽だなぁ。それからヘミングウエイが世界一と絶賛したメキシコ湾に沈む夕陽も格別だ」
「あと趣味は、人間国宝の茶碗を200個くらい所有している」
「凄いですね。でも、集めるのにお金がかかったでしょう」
「勿論、安くはないが20代の頃から集めていたからなぁ」
建設省のキャリア官僚でも、20代の頃ならそんなに給料をもらっていないのに、と不思議に思った。
「どうやって手に入れたか、教えてあげよう。まず目をつけた人間国宝の窯元を訪ねる。そして気に入った茶碗を2、3時間ジッーと見ている。そうすると、『気に入ったかね』と必ず尋ねてくる。そしたら、懐から封を切ってない給料袋取り出して差し出すと大概はその金額で譲ってくれた」
「流石」のひと言。
絶対無理だと言われた土地を買収
建設省のキャリア官僚であった36歳の時、全国最年少で茨城県の開発部長で出向した。当時、国家プロジェクトである鹿島臨海工業地帯を造成するためだ。
土地買収は難航した。特に、地元の名士だった人は誰が行っても首を縦に振らなかった。戦争で一人息子が戦死した。息子の思い出の残る土地は決して手放さないと言い張った。
そして、野呂田先生が最後の切り札として送り込まれた。
名士の家に行った。土地の話は一切しなかった。
「国のために尊い犠牲となったご子息のお参りさせてほしい」
そして14回目のお参りのとき、仏壇の前に土地の売買契約書が置かれていたという。
「先生、そんなに通って成算はあったのですか」
「イヤ、売ってくれるまで通うつもりだった」
土地の話は一度もしなかったが、思いは通じていた。