「社長」は自分の給料を好きなだけ増やせる
でも、カイシャに貯まったお金が正しく使われていれば問題ないはずです。大きいカイシャには、たくさんの優秀な人が集まっていて、社内からも社外からもたくさんの人が見張っているはずだから、社会にとって正しく使われているに違いありません。きっと大丈夫。…………大丈夫?
次は、カイシャを誰が操っているかを考えてみます。
カイシャには社員がいます。ところが、一般の社員とは別に、「取締役」という役職を務めている人がいます。「取り締まる役」と書くわけですから、なかなか偉そうです。さらにその中に「代表取締役」がいます。こういう構造もカイシャ法で定義されています。
カイシャというモンスターには実体がありません。実体はないので、意思もありません。カイシャ自体は何も考えていないし、何一つ行動しません。いいこともしなければ悪さもしないのです。けれども、そのモンスターには「子飼いの代理人」がいます。それが取締役と言われる人たちです。
その代理人、生身の人間が、この巨大なモンスターに蓄えられたお金を動かす権利を持つ、という構造になっています。
例えば、宗教団体には教祖とか宗教者と言われる人がいますよね。怪しげな宗教団体だと、教祖が「私は神の使者だ。私の言葉は神の言葉だ」みたいなことを言うわけですが、その構造とよく似ています。実体のないところに、強力な代理人がつくのです。「私がカイシャの代理人だ」と言って、カイシャの財産をどのように使うかを決める権利を持つのです。
カイシャの取締役が持つ権力は強く、例えば、自分の年俸をいきなり1000万円増やすようなことが、平気でできてしまいます。
私は今、サイボウズ代表取締役社長ですが、自分の給料を倍にしようと思ったら簡単にできます。株主の承認すら不要です。「軽井沢に別荘欲しいなー。俺の給料、あげちゃおっかなー」というノリで、自分の給与を増やせるのです。取締役の給与の上限が設定されていて、そこまでだったら目一杯取れる。自分で意思決定できるんです。
その上限も、株主総会にはかれば増やせます。1回通しておけば、上限額までは、また勝手に自分の給与を変えていい。企業の規模にかかわらず、世の中の代表取締役と呼ばれる人たちにお金持ちが多いのは、自分の給料を自分で決められるからです。
これが、まだカイシャが中小企業の場合、給料を取り過ぎるとリスクもあります。中小企業は、株式の大半を代表自身が持っていることが多いからです。自分が給料を取り過ぎると、保有しているカイシャの株式の価値が下がってしまいます。
しかし、カイシャが長期間にわたって成長していくと、創業者が去ったり、出資者が増えたり、株式の所有者と代表が一致しなくなる。すると、自分の懐が痛まない人が、この大きなモンスターの資産を操れるようになる。人のお金でギャンブルができるようなものです。
そして、このお金を使って好きな人を雇えます。自分にとって都合のいい人を採用し、近くに置くことができます。あなたがあるカイシャに入社できたとしたら、あなたもそのカイシャの取締役にとって「都合がよい人だ」と判断されたと言えます。
特に「代表」がつく取締役は権限が強く、取締役を代表して、自分で決められることが多い。代表取締役というのは、ノーリスクで大きなお金を動かせる、めちゃくちゃ美味しいポジションなんです。
「かさこじぞう」と「幸福な王子」をカイシャに置きかえてみると
カイシャへの理解を深めるために、二つの童話を例に挙げて考えてみます。
一つ目は「かさこじぞう」。日本人なら誰もが知っている有名な昔話です。
貧しい老夫婦は年末のある日、笠を作って売りに行くことを思いつきます。おじいさんは作った笠を持って町へ出かけますが、一つも売れません。仕方なく家に帰りますが、その途中で雪が積もった地蔵たちを見つけます。かわいそうに思って笠をかぶせてあげると、あとで地蔵たちが恩返しをしてくれるという話です。
しかし、冷たいようですが、現実には石で作られた地蔵が感謝したり、ましてや恩返ししたりすることはありえません。生きていない地蔵にも心を配るおじいさんの優しさには共感するものの、恩返しを期待していたらかなり「痛い人」です。
カイシャとカイシャ員の関係も同様です。カイシャには意思がありません。どんなに頑張って働いても、カイシャが何か返してくれることなどありえないのです。返してくれるとしたら経営者たちです。経営者は生きています。彼らが「かさこじぞう」のように社員に恩返しをするのか、それとも私利私欲のために金を使うのか、あるいは地蔵のように何もしないのか、見極めなければなりません。もしかして私たちは、カイシャというものが実在し、何かしてくれると期待しながら働いていないでしょうか。
もう一つの童話は「幸福な王子」です。こちらは寒そうな地蔵とは反対に、宝石と金箔に包まれた王子の像が主人公です。王子の像は、貧しい人々に心を痛めます。そして、ツバメに頼んで、像についているものを剝がさせ、人々に分け与えるという話です。
王子の像についている宝石や金箔は、カイシャに蓄えられた内部留保のようですね。この童話では、王子の像が意思を持って資産の分配を決断しますが、やはりこれも現実にはありえません。像に意思はありません。そしてカイシャにも意思がありません。
意思と権限を持つのは経営者です。社員に分配するのか、社会に還元するのか、それとも私利私欲のために使うのか、あるいは銅像のように何もしないで貯めておくのか。私たちは、生きていないものではなく、生きているものに注目し、信頼できるかどうかを見極めていかなければなりません。
もしかして私たちは童話の銅像のように、カイシャが優しい心を持っていて、「いいカイシャ」だと信じていないでしょうか。もしそうなら、かなり痛い人であると認定します。