技術を磨き上げ、社会に貢献し続ける~ 島津製作所
2019年01月10日 公開 2019年01月10日 更新
京都企業が明かす「うちの経営哲学」
明治初期の創業以来、分析機器や医用機器など幅広いジャンルで世界一流の製品を開発し、京都から日本の近代化を牽引してきた島津製作所。研究開発を通して社会に貢献することを旨としてきたからこそ、産学官連携や共同開発を積極的に行ない、田中耕一氏のノーベル賞受賞に象徴される画期的なイノベーションを生み出し続けている。独自性を追求する京都企業ならではの経営哲学とその実践について、中本晃会長にうかがった。
構成:森末祐二 写真撮影:白岩貞昭
中本 晃 株式会社 島津製作所代表取締役会長
なかもと・あきら*1945年鳥取県生まれ。1969年大阪府立大学工学部卒業後、島津製作所に入社。分析機器事業部長、取締役、常務、専務などを経て、2009年代表取締役社長。2015年代表取締役会長に就任。一般社団法人日本計量機器工業連合会会長、公益社団法人京都工業会会長などの要職も務める。
聞き手:鈴鹿可奈子 株式会社聖護院八ッ橋総本店専務取締役
すずか・かなこ*京都市生まれ。京都大学経済学部卒業。在学中にカリフォルニア大学サンディエゴ校エクステンションに留学。信用調査会社勤務を経て、2006年に聖護院八ッ橋総本店に入社。1689(元禄2)年創業の老舗の味を守りながら、新ブランド「nikiniki」(ニキニキ)を立ち上げるなど、従来の八ッ橋の概念を超えた商品づくりにチャレンジしている。
島津製作所の礎を築いた初代源蔵と2代目源蔵
鈴鹿 京都のハイテク企業の中でも、御社は特に歴史が古く、明治初期の1875(明治8)年にご創業されています。まずは、そのいきさつからお聞かせいただけますか。
中本 当社を創業した初代島津源蔵は、1839(天保10)年に京都の仏具職人の二男として生まれ、1860(万延元)年に市中の木屋町二条に仏具店を構えました。
ところが、明治に入って仏教を排斥する廃仏毀釈運動が起こり、仏具の仕事は減少します。さらに、東京に遷都されたことで、京都の街自体が衰退するのではないかと危惧されていました。
そこで京都では、近代化への取り組みが官民を挙げて行なわれました。なかでも産業の振興を図るために1870(明治3)年に設立されたのが、京都舎密局です。「舎密」とは、化学を意味するオランダ語「Chemie(セーミ)」に漢字をあてはめたものだそうですが、化学にとどまらず様々なジャンルの技術者・産業人を育てることが期待されていました。京都舎密局が置かれたのが島津源蔵の仏具店のすぐそばで、勧業場や織工場もつくられたこの界隈は、まさに先端科学技術の一大集積地となっていったのです。
仏具製作で鋳物、金属加工の技術を培った初代源蔵は、舎密局に出入りするようになり、西洋の新しい理化学機器や科学立国を目指す人々の思いに触れます。そして、みずからも科学技術によって社会に貢献することを志し、理化学機器の修理や製造などを手がけ始めました。これが島津製作所の始まりです。
鈴鹿 まさに京都の近代化とともに歩み出されたわけですね。さぞや新しい時代を担う気概に充ちておられたことと思います。島津製作所をご創業されて、初代源蔵さんはどのようなものをつくられたのですか。
中本 いろいろとありますが、世の中の話題に上り、島津の名を最初に有名にしたのは、軽気球の打ち上げです。気球を打ち上げて、遷都で気持ちが沈んでいた京都府民を励まし、また府民に科学の力を見せることで理科教育への関心を高めたいという気球製作の依頼が、槇村正直知事から初代源蔵にありました。
初代源蔵は詳しい製作方法がわからなかったにもかかわらず、わずか数カ月の開発期間で実現にこぎつけて見事に成功させ、人々の耳目を驚かせたのです。わが国で人を乗せて軽気球が空を飛んだのは、この時が初めてだそうです。
鈴鹿 みなさん、さぞ驚かれたことでしょうね。それほどの大役を任されたところに、初代源蔵さんに寄せられた期待と信頼の大きさがうかがえます。
初代源蔵さんは世の中の変化に柔軟に対応してエンジニアに転身され、そして、ご子息の2代目源蔵さんも同じ道を志されたわけですね。2代目源蔵さんは、「日本のエジソン」と称えられるほどの天才発明家だったとうかがっています。
中本 2代目源蔵は、弱冠15歳で高電圧の電気を発する「感応起電機」をつくるなど、天才ぶりをいかんなく発揮した人物です。1894(明治27)年に初代源蔵が急逝して跡を継いだわけですが、まさに2代目源蔵がその後の島津製作所の基礎を築いたといえます。
初代の志を受け継ぎ、科学立国を目指した2代目源蔵は、「科学は実学であり、単なる理論ではなく、人の役に立つものでなければならない」という言葉を残しています。研究のための研究ではなく、世のため人のために研究開発を行なっていくということです。
鈴鹿 それが御社の社是である「科学技術で社会に貢献する」という言葉につながっているわけですね。
中本 ええ、社是として定められた正確な時期はわかっていませんが、初代および2代目源蔵の姿勢や考え方がこの言葉に収斂したのは間違いのないところです。