赤坂、千早の攻防―日本最弱の兵を率いて大軍と戦った楠木正成
2019年05月17日 公開 2024年12月16日 更新
<<NPO法人孫子経営塾理事である海上知明氏が、近著『戦略で読み解く日本合戦史』は、日本史の一次史料にとどまらず、『孫子』やクラウゼヴィッツの『戦争論』など古今東西の戦略論を参照しつつ、日本合戦史を分析している。
同書にて、少数の手勢で鎌倉幕府の大軍とわたりあった楠木正成の赤坂、千早の攻防を考察している。ここではその一節を紹介する。>>
※本稿は、海上知明著『戦略で読み解く日本合戦史』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
日本最弱の兵を率いて大軍と戦った楠木正成
平安時代から戦国時代に至る期間、軍隊として最弱といえば、まず僧兵集団が挙げられる。たとえば、叡山の僧兵は、まともな戦いで勝ったためしがなかった。
強訴をたくらんでは都を守る平家、河内源氏に撃退され続け、「法住寺合戦」では少数の木曽義仲軍に蹴散らされ、足利義教に苦もなくねじ伏せられ、織田信長によってあっけなく滅ぼされた。
ところが、その叡山が一度だけ大勝利を収めたことがある。元弘元年(1331年)、「建武の新政」に向けて、鎌倉幕府に対する戦いの狼煙を、大塔宮護良親王が叡山で挙げたときである。「元弘の変」である。この時の指揮官は、叡山がかつて抱いたことのない名将・護良親王であった。
叡山が山岳拠点であるという利点を護良親王はフルに活用する。守るに適した地形的な有利さに加えて、山を中心に周囲から攻め寄せる敵と戦ったから、局地戦ながらも「内線の利」につながった。
しかも天皇行幸を信じ、自らが官軍であるという思いが、叡山の僧兵の志気を高め強兵へと変えていく。『孫子』「勢篇」で言うところの「勢」の利用である。
『太平記』によれば、鎌倉幕府軍は五畿内の軍5000騎を正面攻撃軍として赤山禅院ふもとに、搦め手には美濃、尾張、丹波、但馬などの兵7000騎を唐崎の松付近へと差し向けた。
対する叡山では一夜にして6000騎が集結する。さらに出陣段階では1万騎にもなっていた。官軍となった叡山は奮い立った。戦端は唐崎浜付近で開かれた。
叡山軍300人が鎌倉軍7000騎と戦闘を開始したのである。この時、叡山側は地の利を利用して劣勢ながらも善戦する。唐崎は東は湖、西は泥田、道も狭いため大軍の利点は殺されていく。
その間に後方より進む叡山軍は三手に分かれていく。今道方面に3000騎、三宮林に7000騎、そして小舟300隻が大津に向かう。一方面に重心を置き、しかも湖面を利用して背後を突こうというものである。
新手の大軍の登場に動揺したうえ、背後を突かれた鎌倉軍は一気に敗退する。叡山側も深追いせず七分勝ちにて退いた。護良親王の見事な戦い方であった。そして、この戦術的勝利は弱兵でも強兵を破れることを印象付けた。
ここから、「建武の新政」に向けての戦いが各地で開始される。