他人の目を退けるために
心のふれあった人がいないから、他人に嫌われるのが恐いのである。他人に好かれたい、嫌われるのが恐いというのは、つきつめると孤独への恐れではなかろうか。
表面どんなに知人がいるように見えても、心の中では一人ぽっちという人が、他人に自分がどう映るかを恐れているにちがいない。他人に好印象を与えようとして自分を偽る人は、小さい頃、親に受け入れられたことがないのではなかろうか。
一方的な感情を押しつけられたとか、大きすぎる期待をかけられたとか、いずれにしろ、ありのままの自分を受け入れられなかった人であろう。他人と心のふれあいを持った人、心を開いて語りあえる人を持っている人、そんな人は、他人から悪く思われることをそれほど恐れるものではない。
自分に正直になれば、他人とふれあうことができる。そして、他人からどう思われても恐くなくなる。精神的に病んだ人なども、いろいろと確信する。
たとえば、「私の鼻の格好はおかしいでしょ」とか、「私は背が低いでしょ」とか言ってくる人がいる。どんなにそれを否定しても、こちらの言うことに納得しない。それでいながら、執拗にこちらの賛成を求めてくる。
奇妙な確信なのである。つまり、他人の賛成を必要とする確信なのである。これは、自分を偽った人間の確信である。自分に正直になった人間が確信した時は、このように他人にからんでいかない。無理に自分の確信を押しつけようとしない。
自分の確信を執拗なまでに理解してもらおうとするのは、自分を偽って生きているからである。疑似成長という言葉がある。精神的に本当は成長していないのに、成長しているかのように見えることである。
中学生の時、中学生としてやるべきことをやらずに出世しても、やがては挫折する。中学生の時に、友達とも遊ばず勉強ばかりしている。中学生らしい本も読まずに塾に行っている。大自然と接したりスポーツをしたりせず、進学のことばかり考えている。
……そして、よい高校、よい大学に行き、やっとの思いで有名企業に入る。しかし、そこでうつ病でダウンしたのでは、何のために頑張ったのか分からないではないか。
もし、自分が疑似成長をしていると思ったら、これからは社会的成功よりも、情緒の成熟を心がけなければなるまい。親の期待をかなえるよりも、自分の心の底にある感じ方に従わなければならない。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。