卒業させないという「愛のムチ」
卒業させないことが生徒のためになるということもあります。その時私は全教職員の前で、こう尋ねました。
「ではA君を卒業させるべきではないと考えるのですね?」
すると学年団の先生方は皆うなずいています。
「わかりました。彼の親が教員ということもあり、『訴訟』になるかもしれませんが、覚悟して下さい。ですから、この案件は私が対応します」
私がそう言うと、先生方は訴訟という言葉に、一様にギョッとしたように見えました。発端はその年の3年生のある男子生徒(以下A君)を、学年団の教員たちがこぞって絶対に卒業させたくはないと言い張ったことでした。
その理由を聞きますと──生活態度が不真面目で、決められた提出物を出さない。出さないと学校で定めた単位が未達になり、卒業できないと何度言ってもダメ。あげくに、決められた提出期限最終日に大学受験に行っている──という有り様で、これではとても卒業させられないとの話でした。
それを聞いて私も納得はしましたが、実は学校で定めた単位が未達でも、文科省で定められた単位は満たしていたので、最悪訴訟になった場合はどう転ぶかわからないといった状態だったのです。
親は卒業させて欲しいと、校長に面会を求めてきました。いずれにせよ私は校長として「何としてでも親を説得するしかない」と、直接対応することにしたのでした。
そして二度にわたり、親と面談をしました。その間、担任もよくできた先生だったので説得してもらいました。卒業させてはA君の将来のためにもよくない、これからの人生を真剣に取り組んでもらうという意味でも、卒業させられないと懸命に説得を続けました。
親というものは子供のことを一番よくわかっているものですから、最後には折れて納得してもらったのです。「子供の将来を共に前向きに考えましょう」という信念が通じ、生徒と親に寄り添った説得が実を結んだ事例だといえると思います。
もしあの時親の要求を聞き入れて卒業させる判断をしていたなら、教員たちが校長に対して「なぜそんな判断をしたのか?」という不信を招いたかもしれません。
逆に生徒のことを全然理解していないと思われたでしょう。私としては教員たちがこれだけ口を揃えて訴えるのだから、それなりのことが絶対あるはずだという、一つの正しい筋道がそこにあると信じたわけです。
結果的にそれが良かったのですが、何か問題が起きた時、何が一番に正しいことであるか、その本質を見極めることは時に難しいですが、それをやらなければ筋も通らず、よけいにこじれてしまうという結果を招くことになるに違いありません。
ある意味A君にとってはこれが"愛のムチ"となったわけですが、その翌年には大検を受け、無事に希望する大学に入りました。彼にとっては卒業できなかった試練を糧に、人間としても成長してくれたものと信じています。