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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康...「上司にするなら誰?」エピソードから分かる“最適解”

本郷和人(東京大学教授)

2021年08月11日 公開 2022年06月15日 更新

 

島津の恨みを買ってしまった家康

ちなみに、徳川家康でこんな話があります。家康は、上杉謙信を倒すために会津征伐に行くとなり、留守番部隊を置いていかなくことになりました。

家康が頼りにしたのは、側近で幼なじみの鳥居元忠。元忠は「よし、任せとけ。あとは心配すんな」。天下の家康といえども、幼なじみの前ではひとりの男……だったかはわからないですが、ふたりで酒を酌み交わしたそうです。

家康が旅立つと、石田三成軍が攻め込んできた。数の少ない留守番部隊といえど、元忠は必死に食い止めて三成軍と善戦。結局全滅してしまいますが、しばらく三成の足を止めることに成功。会津を攻める家康にとってはいい時間稼ぎになりました。元忠は家康の忠義の武士だから、とにかく家康のいうことを聞く。

実は、三成が攻めてくる前に、九州の島津義弘、「鬼島津」の異名をもつ最強武士が「伏見城に入れてくれ、ともに三成と戦おう」と訪ねてきました。本当に命を差し出す覚悟で。でも元忠は不審がって「あなたが来ることは聞いてないから、お帰りください」。

「っんだよー」と島津は、しかたなく三成派(西軍)につく。しかたなくだから、関ヶ原で三成に「戦え」といわれても、のらりくらりと動かない。

 

あのとき、扉を開けていたら...

西軍の負けで決着がつきそうなときに、戦線離脱することになった。普通、負けて退くときは後ろに下がります。でも、島津は「退却は恥。敵中突破だ!」といって、前に進んだ。つまり、前に立ちはだかっている敵に攻撃しながら突っ走って逃げていく、これを「島津の退き口」といいます。

命からがら九州の地元に帰ると、地元の人たちは「徳川め!!」と激怒。それから徳川家をずーーーーーーっと恨み続けます。ゆくゆく幕末になって薩摩と長州が手を組んで徳川幕府を倒すことにもつながるんですよ。

もしも、島津を伏見城に入れていたら、徳川幕府は倒れなかったかも……なんて思ってしまいます。

なぜ島津が三成のために戦わなかったかって?豊臣秀吉時代に太閤検地というのがあって、そのときに三成の家来が九州に来ました。

まさに「マルサ」みたいな査察。そこで島津が土地の申告を色々ごまかしてたのがバレて、相当しぼられたみたいです。だから三成じゃなくて家康につこうと思ったんだよね。

 

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