「正直者が馬鹿を見る」という言葉がある。その言葉のように、鬱病になる人を生む家庭では、正直に働いた人ほど酷い目に遭ってしまうという。
早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏は、正直者を利用する"ずるい人"ほどきれい事を語ると指摘する。同氏の著書『人生の重荷をプラスにする人、マイナスにする人』では、そうした誰かの人生を振り回す冷たい人間の特徴について解説する。
※本稿は、加藤諦三 著『人生の重荷をプラスにする人、マイナスにする人』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
ずるい人ほどきれい事を言う
心の温かい人と心の冷たい人では、心の冷たい人のほうが強い。たとえば年老いた人をどちらがほうっておけるかといえば、冷たい人のほうである。つまり心の温かい人が負担を背負う。
心は温かいが弱い人は、自分だけが不公平に負担を背負わされていくことを悔しいと思う。過度の負担で消耗してくれば、少しはこの負担を周りの人も背負ってくれてもいいのではないかと思う。
そしてこういう、優しいけれども弱い人たちも、心は満足していない。義務感で引き受けたから不公平と感じるのである。だから、こうして引き受ける側にも心理的に問題がないわけではない。
しかしとにかくずるい人は負担をうまく逃げる。そして世間にはいい顔をする。ずるい人のずるさのゆえんは、本当のことを隠すということである。「俺は自分の利益しか考えないのだ」と言うのならいい。しかしずるい人は必ずきれい事を言いながら負担を逃げる。
高齢者を大切にと言いながら、高齢者を金儲けの種にしている人がいるようなものである。かつて厚生省の事務次官が、高齢者問題に関する汚職で逮捕されたようなことは日常の私生活ではいくらでもある。ある人々が「お年寄りを大切に」と唱えることの根拠は、それが自分の金儲けになるからである。
自分は高齢者を大切にしているのだというきれい事を言いながら、それをもとにして金儲けをしている。「俺は金儲けをするのだ」と言って金儲けをする人のほうがよほどきれいである。いちばん汚らしい心の持ち主は、きれい事を言いながら実際は利益を上げている人たちである。
こうした人々の周囲で鬱病者のような人たちが現れてくるのである。こうしたずるい人たちの周囲には、不当に負担を背負わされて悔しさで心理的におかしくなる人たちが出てくる。
家族成員のうち誰が鬱病者になりやすいかという問題について、次のようなことが言われる。
「病者はその家庭内で実質的には精神的経済的支柱として中心的位置を占めるが、現象的には控え目な、いわば縁の下の力持ち的存在で、あるのは責任だけで、彼の側の苦悩は周囲から必ずしも正当に理解されず、どちらかというと無視されるといった在り方であり、今一つは、しばしば家庭内に権威的もしくは庇護的人物(両親、同胞、配偶者など)が存在し、病者は現象的にはともかく実質的には末梢的位置を占め、その家庭はしばしば大家族的特徴ないしメンタリティをつよくもつといった在り方である。
前者はメランコリー親和型性格の家庭に、後者は両相性うつ病を呈するという意味でのマニー親和型性格の家庭に多くみられる。そして両者に共通するのは伝統志向的保守性を蔵した家庭という特徴である(*1)」
なぜ"いい人"と思われなければならないのか?
ここで問題は、鬱病者になる人がなぜそのような役割を引き受けたのかという動機の問題である。それは周囲の人たちから「いい人」と思ってもらいたいからである。ここに彼らの問題がある。
鬱病者を生み出す家庭の特徴というのは、私にとっては本当にものすごいことに思える。「世の中というものはこういうものなのだなー」と恐ろしくなる。いちばん正直に働いた者が、真っ先に心病んで地獄に堕ちる。
ずるい人たちは「家族の愛情」を声だかに唱えながら、甘い汁を吸う。家族を維持していくための負担を一人におしつけて、自分は知らない顔をする。
私は鬱病者を生み出しやすい家庭のことを考えると、世の中の評価などというものは信じられないものだと恐ろしくなる。たしかに正直に働いた人が最も酷い目に遭うことがよくある。だから「正直者が馬鹿を見る」というような言葉があるのだろう。
つまりそういう酷い目に遭う人の周囲には、ずるい人たちがいっぱいいるということなのである。
「両親をはじめとして幼児期、患者の周囲をとりまいていた人たちは、その性質の従順で素直であることを一様に指摘し、『よい子』であったことを強調する(*2)」
「素直な」彼らは両親の言うことを信じている。信じるように条件付けられている。結果として、騙されやすい人になって、社会に出ていく。そして社会でも再びずるい人のカモになる。
要するに、ずるい人々にとって鬱病者になるような人は扱いやすい人であったということである。もっとはっきりと言えば、鬱病者になるような人は騙しやすい人であったということである。一般的にいうと、繊細な人である。繊細な人が小さい頃、迎合する生き方を学習して、大人になっても人に迎合して重荷を背負うようになったのである。
ずるい人たちは、その「素直な人」に負担を押しつけて、自分たちは目に見える立派なことをして、世間からは「よくするわねー」などという評価を得る。もちろん世間から評価を得る、このずるい人たちも何のために生きているかわかっていない。不幸の構造である。
長男は、次男が働いたお金で裃をつけていろいろの会合に出かけていくが、所詮にあわない。周囲の人は「あいつは何か変だ、なんかしていることが相応しくない」と感じるものである。その周囲の反応を長男は感じる。
そこで今度はナポレオンのような服を着て人に会いに出かけていく。本人も何を着たいかわからないのである。そしていつもイライラしている。
*1 笠原嘉、うつ病の病前性格について、笠原嘉編、『躁うつ病の精神病理1』弘文堂、二一頁。
*2 矢崎妙子、躁うつ病の精神療法、笠原嘉編、『躁うつ病の精神病理1』弘文堂、二二六
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。