「人生が苦しい」と感じる人に共通する“他人への不理解”
生きていてもなぜかつまらない――その原因は他人に甘えた生活をしているからだと加藤諦三氏は語る。同氏は人生を充実させるヒントは苦しみの中にこそあるという。その真意とは。本稿では、大学生から人生がつまらないと相談を受けて、同氏が人生を充実させるために必要なことを語る一説を紹介する。
※本稿は、加藤諦三著『「自分」に執着しない生き方』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。
他人がわかれば自分が見えてくる
よく若い人で、その道で名を成した大家や高名な評論家などを「あんな人物、たいしたことないよ」とか「彼は正義漢ぶってるだけだよ」とかいっている人がいる。そういっている本人は、そういうことによって自分は、何か大変えらいことでもいっているつもりになっているらしい。
「あんな人物、たいしたことないよ」ということによって、ただ日ごろの欲求不満を何とか解消しようとしているのだろうが、けっして、そんなことで欲求不満のほうも解消はしない。
そのうえ、そういうことによって彼は、その対象となった人物のよいところを吸収することができなくなってしまっている。人間は「あんなヤツ、たいしたことねえよ」というような生意気な口をきいているうちは、けっして成長しない。
人間は、やはりほれ込むことによってしか成長しないのだ。対象になった人物にほれ込むことによって、彼らの生活態度のいいところを吸収できるのである。
人生はいつしか、われわれにいやおうなく自分自身の真の姿を認めることを強制する。自分はえらくもなんでもない。怠け者でとりえのない人間だ。そう強引に認めさせてくる。そんな生意気な口だけきいていて謙虚に努力することを忘れていれば、いつしか、だれも相手にしなくなる時がくる。
自分の中の認めがたい感情が、ある外的な対象に属すると見做すことを投影と心理学の方ではいう。つまりこのような「たいしたことねえよ」と相手を非難する人は、心の底では自分は自分の望むほど、優れてはいないと知っている。しかし、それを認めることができない。
まさに自分がたいしたことないと心の底の底で知っている。しかしそのことを認めることが神経症的自尊心にとって耐えがたい。その心の葛藤を解決するために他人を非難するのである。自分が劣っていると心の底で感じながら、そのことを認められない人間ほど他人を声高に嘲笑する。
他人が理解できないと「人生が苦しい」
よく「先生、どうも大学がつまんないんです。何かしたいんです」といってくる人がいる。顔を見て少し話すと、その人がもうエゴイストをなおす以外に方法はないと思うのがよくいる。
最近では、この人は何をやっても長続きしないな、なんていうのがなんとなくすぐにわかってしまうようになった。だいたいにおいて、何か甘ったれていて、そして人を非難する者、こうした人たちは何をやらせてもだめな人である。
彼らにとって他人という存在はない。他人という存在がないということは、他人にとって自分という存在はどういう存在であるかということが分からないということである。とにかく悩んでいる人は自分だけは他の人とは違う特別な存在なのである。
だからこそ友達ができないということはどんなことがあっても認めない。自分だけは他の人とは違って幸せになる特別な資格を持っている人間であるということを狂信しているからこそ、周囲の人は貴方からはなれていくのだということがどうしても分からない。
他人が従っている規則に自分も同じように従いさえすれば、友達もできる、仕事も見つかるかも知れない。しかしどこまでいっても自分だけは特別なのである。他人は自分のために存在しているという抜きがたい感じ方がある。
周囲の人たち皆に迷惑をかけながら、自分は皆に不当に扱われているという被害者意識を持つ。周囲の人たちが皆、その人を中心に動かないと、自分は不当に扱われていると思うのである。自分中心に地球がまわって当り前と思って、逆に皆に迷惑をかけている人の方が被害者意識を持つ。
生きがいというのは、もらうことじゃない。自分のなかにあるものを与えることである。自分の能力を、自分のエネルギーを使うことだ。使うことが生きがいなのである。
それを、自分のエネルギーを使うのではなく、他人のエネルギーを自分のために使ってもらおうとしているから、何もエキサイティングなことがはじまらないのである。