「私はこんなに苦しんでいる」という人は、暗に周囲の人を批難していると加藤氏は言う。なぜ批難が苦しみの表現に姿を変えるのか? そして、不安や不満から本当の意味で抜け出すためには、何が大切なのか?
※本稿は、加藤諦三著『不安をしずめる心理学』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
嘆いている人にアドバイスは厳禁
よかれと思って、嘆いている人に、「こうしたら解決しますよ」と、具体的な解決方法を示すと、ものすごく不愉快な顔をされることがあります。
なぜ不愉快な顔をするかというと、悩んでいること、嘆いているということが、無意識の退行欲求を満たしているからです。
カレン・ホルナイは「悩んでいる人の最大の救いは、悩みである」と述べています。これは、自分の退行欲求を満たしているという意味で、悩んでいることは本人にとって最大の救いだということです。
「うつ病ほど、他人の理解を必要とする病気はない」と言われます。一方で、「うつ病ほど他人が理解するのが難しい病気はない」とも言われます。
だから、うつ病は、なかなか治りません。
うつ病の人が「死にたい」と言うのは、それによって退行欲求が満たされるからで、悩むことが最大の救いだからです。
うつ病の人は何かちょっとしたことで、すぐに落ち込んでしまいます。心理的に健康な人が、「なんでそんなことで落ち込むのだろう。そんなことで落ち込まれたら、自分なんて朝から晩まで落ち込んでいなくてはいけない」と思うようなことでも落ち込むのです。
心理的に健康な人がそう思うことは当然なのですが、うつ病の人は落ち込むことで自分の退行欲求を満たし、さらに周りの人を批難しています。
「こんなに苦しい」は隠された批難
ここが大切なポイントです。このポイントが理解できないから、うつ病は、理解が難しいと言われます。うつ病ほど理解を必要とされる病気はないにもかかわらず、うつ病ほど理解されない病気はないというのは、これが所以です。
つまり「私はこんなに苦しいのだ」と言うのは、批難を表現する手段なのです。「私は、こんなに苦しい」と言って、人を批難しているのです。もちろん、これは無意識です。無意識で人を批難しています。
なぜ批難が苦しみの表現に姿を変えるのかといえば、こうした人は面と向かって人を批難できないからです。だから、あくまで隠された批難として、苦しみという形で批難を表現し、「苦しい、苦しい」と言い続けているのです。
人はコミュニケーション能力がないと生きていけませんが、これは英語ができない、パソコンができないというのとはレベルが違います。それらができなくても、人間は生きていくことができます。
しかし、コミュニケーション能力がなければ、生きてはいけません。だから、引きこもります。土台が不安定な上に、根本のパーソナリティーも不安なので、引きこもってしまうのです。
恐怖に怯える必要のないことでも怯える。
気にする必要のない些細なことでも、気になって仕方がない。
こうした心理をすべて理解するには、彼らの悩みは、攻撃性が変容したものだという点を理解しておかなくてはなりません。
要するに、敵意のような感情を抑圧することで、それが姿を変えて現われてくるのです。この点を理解しておかないと、世の中に数多くある「なぜこんなむごいことが起きるのだろう?」と思う出来事は理解できません。
不安な人は思い込みが強く、そして、その思い込みの裏には、すさまじい敵意が存在しています。「私は不公平に扱われている」「あいつはひどいやつだ」など、周囲の人からすると、想像を絶するような思い込みがあるのです。